今日はお父さんらしき人から、自分の子供とのふれあいについて、
相談していた。トクトクと話が終わってから、「じゃあ、がんばって
みます・・・・」と言って電話が切れた。
人間関係を「がんばります」といっていたお父さんらしき人の
喋り口調はいかにも自然に「フツーの社会人」らしく、真面目そうで
一生懸命に、子供とのふれあいに「ガンバロウ」としているふうだった。
「がんばれば、なんとか、」というのはひた向きではあるけれど、
時にまわりの人間に、苦痛になる。はたして「ガンバル」ことで
人間のふれあいが、できるもんだったろうか?ガンバられてふれあって
くるお父さんに、子供は「相手のガンバリ」ばかり鼻について、
うっとおしくなる方が自然だろう。
がんばる、努力・・・・人間性がドンドン不自然な方向に、
繕った、仮面の生活の方向に突き進んでゆく。自然にしてて、相手が
こちらの手をふりはらうなら、まずはこちらの性格に問題が
あるかもしれない。それを「がんばって」ケアするのはいよいよ
的外れだと思う。
「じゃあ、どうしろってのさ!」という人もいるかもしれない。
でもね、きちんと人と向かっていれば、その人の気持ちの流れは
見えてくると思う。見えてこないところからチョコマカやったって
相手の人間はいらつくばかり。
相手の気持ちが見えてきたとき、もしかして、こちらが期待していた
ものとはてんで違っているかもしれない。いや、たいてい違っている。
そんな違い、差異を知った上で「それでも信じる」、ことを決めたら、
相手もこちらを信用してくれるだろう。「信じる」ことには
大きなリスクがあるのだ。相手に裏切られ、へこまされても、
「じゃあ、嫌い!」とは言えないものなのだ。相手の素行、言動に
こちらが傷ついてても、相手を見やる心構えがあなたにあるだろうか。
だから懐を深く、長くする人としての大きさを、日頃から養わなくては
ならない。相手のかけてくる気持ちが鋭利なものでも、こちらの
スタンスが長めにあることで、許容できる。「そこまでして気を使わないと
いけないの?」 そう。それくらいしなくては、人の気持ちなんて
分かれるはずがないじゃないか。それくらいもしないで、人の気持ちが
分かりたがるなんて、むしがいいんじゃない?
信じる、ってことは「がんばる」ことも含まれるけど、がんばるだけじゃ
信じることにつながらない。
冒頭のラジオにでていたお父さんの「がんばる」が、口なぐさみな
ものでないことを願う。本音は「がんばって」なんか欲しくない。
がんばらなくっちゃできないふれあい、なんておかしいんだし、
お父さんがそんなときにまで「がんばる」なんて言っていた
ボキャブラリーの少なさこそが、既に「人間関係」を軽んじている。
お父さん、あなたは自分の子供とふれあうのに「がんばる」なんて
いっちゃいけない。一時の熱意で「なんとかしておく」ような
決意なんて捨てちゃえ。がんばってどーする?がんばってどーするのさ。