100号エッセイ

エッセイページには「e(ナンバー).html」と前回書いたときの
数字をひとつ足していくだけだから、今回のページで通算
100個めのエッセイ発表となります。ウヒャー、すげー。

こんだけたらたらと書いているのに、いくつかの重なった内容も
あるときのに、ひっきりなしに、いろんな人が読んでくれてて、
どうもありがとうございます。

ものを書くのはかなり楽しくできるので、絞り出したものでなく、
頑張ってやってるものでもなく、ゆえに途切れずにやって
いられるのでしょう。

時々帰省してます。家族にあうのはいいものです。
ホントに忙しくなってきてるから、あんまりゆっくり
できないんだけど、それでも帰ればいつもより優しく迎えて
もらえます。

うちのお茶はおいしいことをこのごろ気付きました。
一人暮らししてて、お茶の感じがどうしても実家と違うことが
気にかかり、母に聞けば案の定、お茶はいいのをいれてるのよ、との
ことでした。

味噌汁も、丼ものも、そこそこ実家の味が引用できるのですが、
なるほど、茶葉が「高価」とあっては、そこいらの「お徳用」とか
銘打ったものを購入している小生では醸しようもござーません。

が、そのお茶も「いつものお茶」ではなく、この不良品長男の
帰省に合わせて出してくれてることが、父の言葉で察しが
つきました。
「ん。今日のお茶はうまいな」
日頃と露骨に葉が違うんでしょうね、どうやら。

父が手の親指の付け根に大火傷を負ったらしく、見ればぽっかり
大きな傷口がある。父は傷口を膿みやすいので、あえてそこを
封鎖したりしないので、傷口が火山の火口みたいにぱっくりでている。
話してても時々そこをいじっている。
「痛い?」と聞くと母の方をみて、ん〜・・と返事をしない。

母に言わせれば「父さんは『痛い』とか『疲れた』を言わない。
だから場合によっては、周りにその状態がわかんない時がある。
たまには言って欲しいときもあるよ」となる。
ホントに父は滅多にいわない。泣き言を聞いたことがない。
これは昔から真似しようとするが、これがなかなかできない。

で、トートツに手術してたりすることがある。
つまりつまり、自分の我慢できることに関して、我慢しっぱなして
しまえるのだ。これはすごいことだ。

父に傷のことを聞いても返事をしなかったのは、母にそのことを
諌められるのがめんどくさそう、って感じだった。
それは父のポリシーなのか、決心なのか知れないけれど、少なくとも
母の説得などでどうこう変わる次元のものではないようだった。

アパートに戻る時、母は庭まで出て、いつも見送る。
手をふって、ニッコリする。
昔から、母は家にいて、ケガや体調不良にはつきそってくれた。
なるべく家にいようとしてくれたことは、幼少の私にしても、
いつもなんだか心強かった。それはうちの兄弟がみな、べったり
母にあまえている事でもわかる。うちの母は優しい。

世の中で結婚したいタイプは?との凡庸な問いかけに
「優しいひと〜」と安易に返事してる若者がテレビにけっこう出てる。
優しいひと、ってなんジャロ?って思わないでもない。
優しい、の形は人によって全く違う。便利な言葉ではあるな、「優しい」。

やさしい、ってナンダロ。
ホントの意味でやさしい、ってのは、かなり不思議な形な気がする。
まんがや映画みたいな露骨な形のものではないだろう。
できたてのカップルがメロメロな状態なときにみせる、スタイルとしての
やさしさ、ってものは、チト筋が外れてるような気がする。

冷たくされても、そこに見いだせる「やさしさ」ってものもあるしね。
やさしい形に見えるものでも、大いに「疑わしい」ものあるしね。
凝っているものはだいたい「技術としてやさしい」場合が多いかな。

やさしい、はかなり簡単な作りだと思う。
私の中の「やさしい」はやはり父・母の基準によって組み上がっている。
シンプルな作りでいて、いざという時にまで役にたつ。
付け焼き刃みたいなものを、うさんくさく思える目はもっておきたい
ものである。見抜かれてしおれるようなものを、誇示する人になっては
いけません。

100個さ、もろもろと書いてくると、さすがに少しばかりは私の
考え方ってものもハッキリしてくるよね。共感できるのも、できないのも
あるだろうけれど、黙っておくよりは出そうっておもってたところは
けっこう書きだせてきたし。

エッセイページはこれからも、こんな具合にたらたらとつづきます。
みなさまの感想、要望もあったらノシノシお通知ください。
で、いーんだよね、エッセイって。

他のエッセイもいいぞ