作品を書く時に、アイディアってものが重要になってくる。
それは一旦書きはじめれば作品と言うものはたっぷりの時間と
洗練を要求してくるからだ。たっぷりの時間と洗練をしたのに
駄作!になることはあるもので、それはおおむねアイディアの
段階のミスが響いていることになる。
ついさっき、ふと思い付いたのは「アイディアは湧いてくるもんじゃなく、
アイディアのあるところに、こちらが出向くものではないのか?」と
いうものだった。
考えて、練りこんで、堅く、きつく組み上げていくことでも作品は
生みだせるものですが、その作品の窮屈さは、作ってる側の人間には
キューンと胸をしめつけるせつなさを生みます。
たっぷりとした世界観のある、素敵な作品の「アイディア」は、いつも
あるときポンと生まれだし、放っておくとそのままスウッと消えて
しまう。
「消えちゃうようなアイディアならそんだけのもんだよ」という人も
いますが、そいつぁちょっと暴言でして、ノーベル賞をとったある
教授なんぞもメモ魔で、寝てる間にもアイディアを思い付いたら
まくらもとのメモに書き記し、翌朝それを読んでみて、理解できる
ような内容であったら、捨てていたなんてな話もあります。
それは「パッとよんで理解できるようなアイディアには大したものは
ない」という理由だそうで、その寝てる間に脳のニューロンたちが
ビシバシ不可解な連結を生んで生まれたアイディアには、とっくりと
時間をかけて検討するに値する「直感」が存在するという理屈で、
わたしはそんな理由が大好きなので、そちら派でいくことにした。
さて、作品なんですが、アイディアは常にいくつかスタンバイしている
状態ですが、ポンポンとはだせない。アイディアがある「量」と「質」に
達するまでは、やはり大事にしないと「シオシオ~」なまま生まれて
しまう。で、アイディアがでたときに、私は無意識に「頑張って」しまうのだ。
頑張ってしまうと、頑張りが育ってしまう。アイディアの隙間に
「頑張るもの」ゆえの不自然さが入る。
で、冒頭の言葉に戻りますが、アイディアの方へ私が入り込んでいく、
という考え方はそうした「アイディア外のもの」を入れないまま
作品をふくらますことができるなあ、と思ったのです。
作品を、できるかぎりピュアなもので構成できると、作品はシンプルに
なり、より多くの人がわかりやすくなる。
はっはっは、このエッセイはひとりごとやな。ま、エッセイだしね。
次回作はこのやり方で作ってみよう。オス!