よく考えたら18の時から、俺、5つの住所が今までに存在
してたのね。寮時代から、現在のアパートまで、けっこう
引っ越してきてるなぁ。
どこの住まいも、そう「苦」であったことはない。そこそこ
楽しく過ごしてしまえるのだ。ある時は「隣の部屋の窓が割れ、
包丁が刺さってた」こともあるし、「部屋に乱入してきた男が
『包丁出せ!おれが腹かっさばくとこみせてやる!」と叫ばれたり、
いろんな事があったと今にしては思うけど、不思議と「大したことじゃ
ない」と思ってる。あ、「アパートガス爆発!」はショックだった。
でも、それくらいかなぁ。
どこの部屋に入る時も、もうあんまり「お隣さんにあいさつ」って
しないでいいのね。つーか、今の部屋のお隣さんも、いつのまにか
かわってるみたいで、以前ヤンキー、今は家族みたい。子持ちの。
大阪藤井寺時代は暗い部屋に住んでたなぁ。近隣の部屋の人も
やたらめったらに怪しかったなぁ。
大阪江坂時代は豪華だったなぁ。「毎日ゲーセンに通う!」という
それは優雅な生活だったなぁ。月々6万5000円払ってたもんなぁ。
でも隣はヤクザだったなぁ、奥さん外国人だったし。刑事きたし。
そして今は江坂の次くらいには「普通の」生活ですな。今日は壁紙
買ってきまして、サラウンドスピーカーの支柱を豪華にしてやりました。
人はそこそこ、どこでも生きていけるなぁ、と思います。
悪い人ってそんなにいないんだなぁ、と思うのです。
日本に住んでいる限り、そこそこどこもヌルいんですが、その分
「死ぬほどのピンチ」は数えるほどです。ゆえに、もっともっと
挑んでもイイヨナ、とかいってしまうのです。
食い扶持に困ることに慣れてきてたので、服も地味めですし、頓着
しませんし、食うにしても一食50円くらいのオカズに慣れても
いますので、よほど「ヤバイ!」と思うことと言えば、せいぜい
「病気」「ケガ」くらいですか。
ゆえに、磨くべきは自分の内面しかない訳で、どうにかなるかしら?と
未だにフイフイしています(フイフイ?)
どこで生きているか、が問題じゃなく、なにをして生きているか、は
大事なことです。生活は昨日から今日、今日から明日と連続している
のです。だから「昨日と一緒」の今日ならば、今日は昨日の延長だ。
「でも今日から俺は」ならば昨日と明日の形は連続しないでしょう。
「明日からこそ」・・・はおおむね「嘘」になります。つまり、人には
「昨日」と「今日」しかないのである。明日、を語るには、今日の準備を
真剣にしている人にしか許されないし、本気で「明日」を見据える人と
いうのは、「明日」を語らない場合が多い。ゆえに、昨日と今日ばかり
増えるのだ。
わたしはどこに住んでいても大差ない、といっているのは、私のやりたい
ことが「どこか」という場所にあまり左右させないことを選んでいる
ことも所以してるでしょうな。そして「住んでいるところ」に心を
開ききらないんだろうな、とも思うのです。
わたしは属したところにいつも「思い入れ」すぎてしまう。自分の足取りが
重くなるまでやり過ぎてしまう。そのうえ断わるのが下手だ。ゆえに、
深入りするのが恐いのだろう。
行った先で、住んだ先で、たくさんの人と知り合ってきた。
みんないい人だった。これからも各々の道筋で生きてゆく。
引っ越し好き、な訳じゃないのよ。
なのに、普通の人よりはたくさん引っ越してるね。つまり、私の気持ちの
どこかに、あるんだろうな、言外のなにか、が。