日本アカデミー賞というのがあるそうである。わあ、賞かぁ、と
はじめはなんとなく笑っていたけれど、んんむ?よくよく考えると
「日本」で「アカデミー」ってなによ?とか思う。常設でどこかに
アカデミーがあったけか?といぶかしむのである。

他にも本などで「〜賞受賞」ってのを売り文句によくよく見かけるのだが、
その「賞」の重みってのが、このごろではなんだか軽いのである。
「賞」の権威ってのはうさんくさいものではある。そこいらの作品よりも
「賞」のついた作品にはまだ「秀逸さ」があるには違いないが、
この娯楽多様化の御時勢では「そちらのその世界では比較的素敵」
くらいのものでしょう?という加減なのだ。
つまり、こちらの生活に肉迫してくるほどのパンチに欠く、そんな
印象なのだ。

このごろ邦画が少しばかり楽しいのだ。「GO」「ランドリー」
「ピンポン」など、窪塚の出ている作品ばかりみているが、
どれも鑑賞に耐える。これらの作品が見ていて楽なのは、その
気負いの見せなさ具合である。

元来、邦画は元気のないものだった。若手に作らせない映画業界の
魅力のなさもあるし、たまに「海外で受賞!」とか「アマチュアフィルム
世界では絶賛!」的触れ込みで漂ってくる作品は、やけに「派手」
だったり「奇異」だったりするばかりで、作品に大いに「気負い」が
感じられて、見ていて、その「頑張り」に胸が苦しくなるありさまだった。

そんな邦画ばかりだと、おっつけ洋画やアニメに突っ走るのも当然で、
そのうえ昨今ではアメリカ映画もすっかりその「オリジナリティ」の
発揮を忘れた「ありもの・引用・コラージュ作品」で蔓延してるから、
洋画すら面白くないのである。

かくいうアニメもそんなに「トレビアン!」なものではないのであるが、
それでも邦画・洋画などよりは、その自由さ、演出力ははっきり
目に見える、心に感じとれる品質にある。

そう、つまるところ映画の魅力というのは、「人の演出するもの」が
ハッキリしているのがいいのだ。
上のことから、最近の「邦画」そのものは大して評価するところではないが、
「GO」「ランドリー」「ピンポン」あたりの邦画は、作品単体で
「輝き」を放っていて、演出がある。それも「役者だけ」でも
「監督だけ」でも「脚本だけ」でも「音楽だけ」でもない、複合的な
魅力があって、その上見てて「楽」なのである。

下手なウンチクで気分を害すこともないし、テーマやモチーフの
「重さ」に作品が振り回されてないし、時代の空気を無視してない感じが
特にいい気分にさせる。

だから「GO」「ランドリー」「ピンポン」の3作品あたりをキネマ
旬報あたりが「邦画の復権」的ヨイショをしてると「え〜、頑張ってるのは
作家個人で、『邦画』とか呼ばれてるジャンルや業界は、別に頑張って
ないでしょう?」と、もう「邦画」扱いもしてほしくないね、とか
思うのだ。(かなりハナモチならない言い方ですね、これ)

実際、宮藤官九郎さんの脚本による作品「池袋ウェストゲートパーク」
「木更津キャッツアイ」などのドラマがヒットしたところで、それが
他のトレンディドラマに類するところにはならない。彼、独自の突出が
わかるばかりで、なんぞ「テレビドラマの復興」でも映像文化のなんたらに
つながるものではない。宮藤さんの魅力はつまるところ「大人計画」
という劇団経由の才能の引用であるときに、テレビはもうとっくに
「独自で才能を開花させる」つもりもなくなってる印象だ。
ま、かつては「映画」から監督を引用、今は「小劇場」から役者、
演出能力を引用、とテレビはあちこちからの「演出力」の引用で
やってきてるんだから、ハナを効かせていることばかりに器用に
なる傾向になるものだ。んなこたぁわかってる。

洋画、に関しては、どこかまだ期待してるところがある。
ひとくくりに「洋画」といっても、「アメリカ映画」と
「アメリカ映画以外」とあって、その「アメリカ映画」がここんとこ
すっかり精彩を欠いているから、「アメリカ映画以外」に注目を
します。

このジャンルはおおまかに「アジア映画」「ヨーロッパ映画」になる。
近年「韓国映画」がその高いテンションでしばらく「カッコイー」で
あった。でもそんな映画はおおむね都市圏の「単館上映」であって、
どうしたって見る人の数はグンと減る。わたしはその「単館上映」の
中でもヘボヘボな映画を好んで見るのでこのごろで覚えているのが
「怪盗ブラックタイガー」「クイーンコング」「恋はハッケヨイ」などは
ことごとく「バッカヤロー!お金返してください!」的怒りに満ちる
作品ばかり。とはいえ、そうした傾向の作品の中からでないと、
飛び抜けた威力のある「スゲー作品」はみつからないのであって、
そのたったひとつの「スゲー作品」に触れられるモンならば、と
自分のなかで期待してるから、覚悟して見に行けるのですね。

さ、「賞」。
ま、なんせこれがあてにならない。
このごろ「賞」から作品に入っていくことがすっかりなくなって
しまった。そしてかなうものなら、いい作品たちが「受賞」しないで
いてくれたらな、と思う。作品を作っているときになんの協力も
力添えもしなかった上に「賞をやろう」ときて、なんといいますか、
力づくの「勝ち組」にみせかけるので必死な感じがしらけちゃって
しかたないのです。

いい作品が、さんざん浸透して挙句に「受賞!」ってのはどーなのよ?
といぶかしみます。いい演出、いい作家の「発掘」能力に寄与できない
「賞」って、その「賞」そのものは「無能でーす」とひけらかしてるのに
等しくないのか?そして「勝ち組にのっていきまーす」とすら見えかねない
その「スピード感覚のなさ」はどうにもならないのか。

時代がどうしたって「インターネット」や「Eメール」「携帯端末」
なんてものに「スピード」を比較されるときに、旧泰然とした
「賞」ってものは、もっとスタミナやスピードを発揮しなくちゃ
いけないんじゃないでしょうか。そして「作品」や「作家」「業界」
への貢献をなせる、具体的に「いいもの」で「賞」があってくれないと、
このままひたすら「うさんくさい」方向にしか進まないのではないでしょうか。
作家にも消費者にも「あてになんない」感じの「賞」はやっぱり
オカシイです。

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