しあわせ

お風呂に入って御飯をいっぱい食べた、ってだけでそれは贅沢やなあ、と
今晩思いました。御飯をいっぱい食べられると、気持ちがわぁぁぁ〜って
食べた幸せで満ちてきます。お風呂もそうです。悲しくても考え事してても
湯舟に浸かってたっぷり「ほぉぉぉぉ〜」ってぼぉ〜んやりしてから
ざぁ〜と流すと、気分が良くなっています。

たっぷり寝て、たっぷり食べて、ゆっくりお風呂に入ると、気持ちが
しゃんとしてきます。どんなに悲しくても、どんなに苦しくても、
上の3つのあとでは、やわらぐのが分かります。

贅沢ってのはこんなものでいいなぁ、と思うのです。
なんたって、自分の心ってものは、自分の心なのに、一番思い通りに
ならないものです。その「自分の心」をゆるくできるお風呂、御飯、睡眠は
魔法のように思えてきます。

欲しいものがある、とか、なりたいものがある、という向上心や物欲にも
たしかに人の心を高揚させる力があるでしょうが、具体的に自分を
元気づけられるのは寝て、食べた、その後!のものであります。
食べられず、寝られず、そのうえお風呂に長いこと浸かってないと、
それはもうガサツな心象に負けます。ふにゃりと負けます。

かつて、大坂時代、私の住んでいた火事でマンションが燃えているのを
見てる時に、雨が降ってきました。わたしはTシャツにつっかけ、短パン
という格好でした。
部屋は燃えてるわ、薄着だわ、雨は降ってくるわ、そんな時に思ったのは
「ああ・・・雨と風がしのげるだげでいいのになぁ・・・・部屋さえ
あればいいのになぁ・・・」とボンヤリ消防車の横で思ってました。
目の前で、自分の部屋の窓が消防署員に割られ、派手に放水され、
天井もブチ壊されて、ホースがジャブジャブ水をたたえ、いつも登ってた
階段はその部屋を伝ってススだらけになった水をトートーと滝のように
たたえています。

傘も目の前で燃えてますし、部屋も燃えてますし、着替えも燃えてます。
服を買おうにも財布も目の前で燃えてますし、知人に連絡しようにも、
アドレスもゴーゴー燃えてます。火事って全部燃えてることなんですよ。
自分の記憶に残ってるものでしか動けないんですよ。まったく知らない
人の家に入っていって「すいません、電話かしてください」って言ったのも
このときはじめてでしたし、お礼の電話代すら置けなかった自分を
発見したのもこの時でした。

この時、大屋さんが気を利かせて代理の部屋を100メートルほど離れた
ところに同じ家賃のままで貸してくれたので、かろうじて雨風がしのげました。
部屋、ったって、全部家財は焼けてますので、部屋の中には「わたし」しか
ないのです。焼跡からなにか持ち出そうにも、全部燃えカスであったり
ガラクタになってました。そうでないものは片っ端から「黒い」のです。

が、わたしはうれしかった、というのをキョーレツに覚えてます。
雨にも濡れないで済むし、風が吹いたって平気な「部屋」がある、というのは
なんてうれしいんだ!寒くない、寒くないってことが、こんなにいいものとは
思いもしませんでした。服もお金も料理機具もその食材もない部屋で、
わたしがいる、私のいる部屋がある、ってのはなんていいものだ!!!って
痛切に感じたのを今、思いだしながら、これを打ってます。

ゴロンとできる部屋がある。それだけで、帰られる場所があることになり、
そこには生活のためのものがつまっていて、御飯も食べられ、お風呂に入れ、
あったかい布団に入って翌朝まで寝られる。のどが渇いたら水がでる蛇口が
あって、汗をかいたら着替えがあって、スイッチをいれると電気がつく。
これが幸せでなくてなんでありましょう?
みんなもっとこの点について感謝しまくっていいと思う。

イスラエルがアラファトさんを包囲して、監禁して、水も電気もない中、
アラファトさんは缶詰めを一日一食たべて、横になってた、とニュースで
言ってました。つらい、つらいには違いありません。ひどい、イスラエルは
ひどいことをしています。
でもアラファトさんはその生活を「不自由」とは違うものとして見てたのでは
ないかと思うのです。少なくとも「寝て」「食べられた」のです。
彼はもっと苛酷なものの中で生きてきた人だよな、とひとり想像してます。

部屋がまっくらのまま、水が出ない、という中にあなたはジッとして
いられますか?それでも、雨と風がしのげるのです。人はまず、そこから
「よかった」と感謝できる生き物のはずです。
そのうえ、今日はたらふく食べ、お風呂にもゆっくりゆったり浸かりました。
体がぽかぽかしています。もう、至福です。他にやらなアカンことも
ぎょーさんありますけど、今、至福です。

他のエッセイを読む