おびえて生きてることに慣れるとあちらこちらに不安を感じて
無駄に焦ることになる。つまり、余分に心配を重ねる、ってことだ。
おびえるな!なんてことは不毛だし、おびえない、というのは嘘だし、
そこでのたうつのも的が外れてる。
いったん不安を覚えはじめると、人はなかなか正気を保てなくなる。
むやみに、人に、救いを求めてしまうこともある。人以外に求める
人もいる。そうした弱さを軽視してはいけない。人は弱さからいろんな
ことをしてしまうものだから、見過ごしてしまうのは危険でもある。
加護するのも問題の捕らえ方がブサイクだ。
不安を覚える人と言うのは、後先なく安心を求めてしまいがちになる。
あれやこれやと安心を手に入れるためにいろんなことをしてしまう。
安心を手に入れるために、怪我だってしてしまう。
それが、すでに、安心ではない、というのに。
わたしにもたっぷりの不安というものがあり、その正視にはなかなか
神経が持たないんだけれど、それでもひとつのめやすを持っている。
ひとり。
ひとり、わたしが信頼できる人を見い出しているうちは、安心できるのだ。
なにか、自分で抱えきれないことが起こっても、その人を思うと
安心できる人を見つけてさえいると、大丈夫なのだ。
幸い、わたしにもいろんな形の不安が今まで何度も何度もきてるんだけど、
悲しみきったりして自己陶酔しないでいられたのは、わたし、の外に
わたし、を照らす方法を見つけていたのが大きい。
今、その時はわたしが「最悪」の状態であっても、「その他」のわたしが
あることを、自分が信じてる人に見い出すと、正気が戻るのだ。少しづつ。
だからヤケにならないで済んだし、適当に妥協しないでもこられた。
わたしがとことん信じてしまえる人にもう出会って来れたのだから、
まだまだ出会うことになると信じられる。
信じる、信じられる・・・照れる言葉である。
ひとり、信じてくれてる人に出会えたら、じゃあもしかして、と
他のもう一人に出会うまでがすでに楽しみでもあるのだ。
そして、自分が信じてしまえる人に出会えても、やはりもうひとり
くらいはいるはずさ、と長く期待を楽しめるものなのだ。
今、のなにかに悲観してることを楽しんでるのなら、それもいい。
それが私には時間が惜しい。
人数ではない、ひとりいれば十分ほかにもまだいるさ、と推察できる。
そのことが、きっかけで、歩みに少し素敵なリズムが生まれる。