「こんな生活望んでいなかった。」ドラッグ常用者の番組で
その女の人はいってた。まともになりたかった、って。
どこか、そして「今、以外の自分」が、仮想か、理想の世界かに
希望してる自分のスタイルが見えている。
つまり、「自分が期待してる」形になれないから、悲しい、という
考え方。いや、「考え方」でもないか。だってそれは自覚ないものだし、
感じてはいるけど、自分でどうにもならない、という前提のもの。
ここに話したいのは、まだ到達も、達成もしていないものなんかと
自分の今、なんてのを比べてることで早々に「がっかり」したがってる
人間の話だ。それは想像力のたくましい人間でもあるのに。
憧れてる形になってないから、といってヘコむというのはいったい
なんなんだろう?
「きっと思ったようになれるはず」という、あの期待をハナから信じられた
錯覚や誤解を「あきらめる」のも、なんでだろう?
「第3舞台」の本を図書館から借りてきて読んでいたら、しばらくは
気分がシャッキリしたので、姿勢がよくなってきたような気もしたんだけど、
よくよく読んでたら、主宰者の「さみしさ」に触ってくる目線と、
それに真っ向から反発した「スピード」や「ギャグ」ってものが
なんだか、「特定の感情を持っていられるがゆえに
『書きだせるモチーフ』を見出せる人」にも見えてきて、ム、なんだか、
ズルくもある、と思えるようになってきた。
感情、が問題なのかな。
それとも「理想」の使い方が下手なのかな。
今、こそが、人の持っているものの最善、と私は思っている方だけれど、
あの「今、思った状態じゃない!」という怒りを発する人間ってなんだろう?
ドラッグ常用者の苦しむ姿は、気持ちにおさまりをつけられない人間に
とって、感情移入してしまえるものに私には見える。
休みの日、部屋にいると勧誘の人がくる。
新聞屋とか、宗教の人。
あらかじめいうけれど、私は宗教については必要なものとしてる。
けれど、それに必要のあるときに、私はそっちの方へ出向けるから、
勧誘には来るな、というのが現在のスタンスだ。事実、無宗教のはずだ。
今朝、とある宗派の方が部屋のチャイムをならした。開口一番
「(ドアを)あけてくださってありがとう」といわれた。すてきな言葉だ。
それで、ああ、宗教の人だな、と思った。
勧誘の話になりそうだったので丁寧にお断りした。
先方はお断りされた理由を聞きたがったのだけれど、私にはそれを話すのも
苦痛なので、堪忍なさい、と強く断って、ドアをゆっくり閉めた。
このごろ思う。
すべて、話す必要はないのだ。
昔は逐一「嫌な理由」とか「ダメな理由」を話すまではマナーだと
思って、自分の感情が傷ついても「頑張って」話すようにしてた。
このごろは、そうしたことを話しさせらる、ってことが、すでに
こちらが傷付くことを発見し、そうした先方の「土足で入ってくる感じ」こそが
マナー違反と思い、キチンと断ることにしてる。
私はたっぷり時間をかければ、人はよほどの苦しさや、悲しさを
自分に自然なものとしてとりこめると信じてる。
ただ、そうした人は「他人と分かちあってはいけないもの」を、自分に育む時間も
たっぷりといる、とも思う。
ここに、以前のエッセイからいってきてる「放っておいてくれる」他人こそ
ありがたいのだ。見てはくれている。でも、みすみす放っておいてくれる、
そうしたスタンスを守ってくれる人があると、私は長続きする。
私はどちらかというと、無理しても話してしまう方なので、いっそ
人に会わないでおく時間を作る方だと思う。調子の戻るまではホントに
自分にこまってしまうことだってある。誰にもあること。
これも「調子のいい」自分ってものを「仮想」で見続けてることであって、
目の前の自分の直視をしていない。人はその「想像」の中のもので
大きく生き方の方向を決めている。
それは人の「強さ」とか「弱さ」って次元のものとも違う。
ここには、まだ的を射ていない、けれどとんでもなく重要なことが
言葉にならないまま、たゆたっている。誰かこれを言葉にしてるのかな。
ま、あっても聞きたくないけれど。
「こんな生活のぞんでなかった」
そう?・・・・で。
他人事じゃない。
でもそこに立ち止まっておいて「こんな生活のぞんでなかった」と
いうのも、嫌だな、と思う。
そう「言えちゃう」のはやだな、と。