夜、寝つきが悪い日だったので、ラジオをつけて眠ることにしてた。
突然ニュースが入って、深夜3時まではそのニュースをくり返した。
コロンビア号が空中分解してしまった。クルー7人は死亡。テレビは
きっとその映像を流してるだろうな、と思い、ラジオを切り、眠った。
翌朝、毛利さんが日本人もとシャトルクルーということでコメンタリを
テレビでしていた。なんだか直視できなくて、スカパでBBCとCNNを
みたら、やはり落下中・分解してるシャトルの映像をくり返した。
長く軌跡を引いた映像は、その途中で爆発し、分解し、軌跡の数を増やしたり
していて、「私はなにをみせられているんだろう」と思った。
人が死んでいるかもしれない様子を見ているのだ、と思った。
阪神大震災が5000人規模の「一斉の命日」であるように、今、目の前で
クルーがあの軌跡の先端の中で「生きてる」ために戦ってるかもしれない
映像をくり返し見ている。もしくはすでに亡くなっているのかもしれない。
彼・彼女たちの家族はこれを直視できないと思う。この映像はくり返し
メディアに出るだろう。これから何年も経ってからも「コロンビア号の悲劇」と
称されて、家族の心の傷が癒えたころに、フイに残骸の映像と共に眼前に
提示されるだろう。
事故、そのものの悲しさが、いつも「番組」を維持するテレビのおかげで
「部外者」のコメントでてんこもりにされる。事故が起こって半日たたない
うちに、コメントばかりで埋まる。NASA、大統領、長官、残骸を見た人、
イスラエルのドキュメンタリスタッフ、テキサスの住人。
テレビはテレビそのものに求められる仕事をきちんとしている。
ただ、私がクルーの親族だったら、テレビのしていることは暴力だと思い、
恨むはずだ。安心してみられなくなるような気がする。
「そこでまだ生きてたかもしれない映像」かと思うと、なに見てるんだろう、
私は、と朝から思った。「こんなの放映しちゃいけない!」なんてのも
なにかズレてる。とはいえ、「なにをみてるんだろう」と気持ちにおさまりが
つかなかったのだ。