夜に買い物するものは

その日は美容室ってのにはじめて入って、ひどく緊張していたのか
そこから出る時にはひどく疲れていたのを覚えてる。美容室では
その日男の客は私だけで、それこそ隣の席に座ってる女性たちと
カットしてるお兄さんとは「今度結婚式なので・・」とか「わたし、
女子高なんで・・・」などという会話に囲まれて、私はといえば
男性向けの髪型のたくさん載ってる雑誌からあんな髪やこんな髪と
物色しているところなのだった。

ところで、髪型なんてのは、うまれてからこの方「凝った」ことが
ついぞなく、ましてや「自分のしたい髪型」なんてのもないし、
それこそ人様に「こんなふうにして」なんていったこともないので
美容室なんてところに入っておきながら(予約までしておきながら)
椅子に座って仰向けにされて髪洗われたなんてのもはじめてで、
おうおう!なんだよ美容室、どうなってんだよ、どーすんだよ、俺っ!
とか今さらなんだか面白くてなすがままにされてみるか、などと
やけに達観してたつもりだったけれど、いざ今まで我ながらみたことない
髪型になって、やけにボリュームとか立てるとかいろいろされて
なんだかじぶんらしいよーな、そーでないよーな感じになって、
楽しいのには違いなかったけれど、さすがに緊張したのか、靴下買って
部屋に戻ったら珍しく昼寝してしまった。

夜になって、鏡をみたら見なれぬ自分が写っていて、ナルホド、
床屋と美容院ってーのはやっぱり仕事が違うなぁ、と心がうずくわけです。
「いつものよーにね」ってわけにはいかなかったし、髪を「すく」にしたって
たしかにバリエーションの豊富さ、楽しさを考えると美容室ってのは
なかなか楽しいのであります。

んで、フイに「感情」の方がやけに疼きまして、ながや、なんかたりねー
感じしないか?と感情が訴えかけてきまして、テレビ見ても、ラジオ聴いても
音楽聴いてもみたされないので、お、こりゃあ、あれだ。身近ななんかじゃ
みたされないな!とフイに気付きまして、しばし熟慮しましたら
おお、そーか、これはあれだ!とハッとしまして、古本屋さんに直行
した次第です。

1軒目の古本屋さんで「ヨコハマ買い出し紀行」の1〜5、7と入手しまして
こりゃあ、あれだ、6巻手にいれなくちゃ、イッキにラストまで読みたく
なっちゃうときにエラいことよ!と発奮し、2軒目の本屋さんに直行したら
7、10巻があり、なに!じゃ、タラネーのは8巻ってこと?とようやく
「ヨコハマ買い出し紀行」が今10巻らしいとようやく理解して、3軒目の
本屋さんでかろうじて8巻をみつけ、ひどく素敵な買い物をしたような
気持ちになって、コンビニでオニギリ3つと熱くてオイシイお茶を買って
部屋に戻る。

そう、感情が「足りないぞ」と叫んでいたわけです。
なんかしっくり気持ちがおさまらない、とか腑にに落ちない(このごろ
この言い回しが好きです。頭では知ってても、腑(内臓)の方にしっくり
こない、というのは気持ちの悪いことですし、放っておけない感じの
表現にはぴったりというものです)のは、やっぱり「今、足りないよぉ」と
正直で大切なものなんだと思うのです。
「ヨコハマ買い出し紀行」はやっぱり素敵な本でした。風景がたくさんあって、
まんがで描いていますが、音があるし、空気があるし、歌があるし、つまり
絵、を使っていながら、そこから伝えようとしているものが「絵以外」の
ものであるという、柔らかさみたいなもので充ち満ちているわけです。

もちろん、私に足りなかったような気のしたものが、そこにはてんこもりに
用意されていて、まだ半分も読みいたってないうちに、なんだかもう
うれしくなってきまして、おお、この感情をエッセイに、といま、こうして
発奮しまくっておるわけです。

サミシイ、とかカナシイ、ウレシイ、クヤシイ、などなどの感情は
時々たっぷりと空気にあててやらなくちゃいけない。干したりさらしたり
しなくちゃいけない。しまいっぱなしって人がときどきいるけれど、
あれははた目にわかりますね。一方で感情だけですます人もよく分かりますね。
(すっかり思慮を脇にやってしまうことに躊躇しない人のことです)
いや、分かりやすいのはいいことです。モチロン、そうした感情を
もらいにゆくってのもあります。私は時々、そうした感情の発見に
血眼になることがあります。幸い、今日、今さっきまで足りなかった
感情がなにだったかが、今のこの幸福感でひじょうによくわかります。

んー、ヨコハマ買い出し紀行はいいマンガですね。最近のアニメやマンガが
置き忘れてきてたものを丸抱えで、おくれてやってきて「はーい、これでしょう」
って届けてもらったみたいな安心でタップリしています。

さて、じゃあなんでこのエッセイのタイトルが「ヨコハマ買い出し紀行」で
ないのか、といいませば、そうなんです。今日はヨコハマ買い出し紀行で
みたされた感情も、明日になれば別のなにかにもとめているかもしれない、
そんな「感情のうめ方」の着眼点に執着したいのです。

わたしたちは生きているとときどき「衝動」ってものにかられて、激しく
動き出す時がある。大失敗に向かう時もあるし、輝ける成功に向かったり、
対峙するものに立ち向かう時もあれば、やみくもに走るばかりの時だって
ある。それは「量」のあるものであって、方向そのものは2次的なものだ。
まず「動き出したい!」という衝動なのだ。それが、私の場合、ハッキリと
感情に「衝動」を覚えて、夜中に3軒の店をめぐった。そして激しくうれしく
なれたのだ。これは昼間の「美容室」からはじまった感情の発露だと思う。
そしてこれが今回目論んでいた結果でもあるのだ。

いつもの、毎日の、くり返してた生活に、「凝って」しまえたことで、
たしかに粗そうなく過ごせる生き方もあるとは思う。でもそれは人の感情の
なにかにこたえることではないし、いまひとつ、人間としての豊かさを
もったいなくさせていると思うんです。わたしはあんまり冒険のできない
性格だけれど、これっぱかしの「はぐらかし」くらいは自分にしかけるし、
単純なもんだから、案の定こうして心が揺らいでいるのがうれしいのだ。

ちゃんとこたえて、ちゃんと過ごすために、ちゃんとはぐれることもして、
ちゃんと生きるがゆえに、ちゃんと笑うし、ちゃんと泣く、怒る、すねる、
楽しむ。
人は感情の生き物だから、せめてきちんとそれにこたえてあげられた夜の
なんとも煮え切らないエッセイでしたね。ふふふ。

 

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