まるで水がたまるように

夏がもう近いんでしょう、梅雨だというのに、その雨がさほどうっとおしくも
なくなってきてまして、日ざしがなんとなく直線的に刺さる感じをうけるし、
風もなんだかサッパリしたものを見つけやすくなってきました。

車で走ってて、ふと感じたのが、「このごろなんだか元気だな」ってことでして、
返していえば、しばらくの間、なんだか本調子でなかったな、ということです。

不調の時ってなにかといらないことをしてバタバタ、いらないものを買って
部屋はドタドタ、なんにつけおさまりがつかなくっていやぁ、な気持ちに
ゆるんでるんです。困ってるのになんともできない感じですな。

で、この頃は、今までに感じてた「なにをしてもとろとろと体から流れ出していた
ようなもの」が「きちんとたまる」ような感覚にシフトしてまして、
ああ、俺、元気になろうとしてる、とおもうのです。

ん!いっておきますが、ながやは宗教をしません。多分未来にわたって
しません。「信じてる人」を尊重はしますが、ながやには勧めないで
くださいね。ただ、自分の気持ちのことを言葉にすると、どうしても
曖昧な言葉が増えちゃうもので、なにかとファンシーな単語が増えますな。

しばらくの間、本当に私は調子を落としてきてました。それに自覚があってもなかなか
どうしようもない、ってのが人間です。そんな時、私は「待ち」ます。
さんざんあがいて、なんともならねーことに対しては早々に「待ち」ます。

それは「きっとなにか大丈夫なものが、周りからやってくる」と安心してる上の
ことです。私の調子そのものではなく、周りの人が「はい、ながや」と
放り込んでくる場合が今までにもたくさんあって、ああ、きっと今回もなんだか
大丈夫だ、と達観(?)して待つのです。

実際、今週はじめまで、極端に困ってたことがありましたが、周りの人に
すっかり助けられました。それは私が「助けて」というのではなく、
なんとなしに察していただけて、それも複数の人が助けに動いてくれました。

結局、人というのは「ふだん見せている私」ってのが、他人の中に「アイツ」として
覚えてもらっていて、その「アイツ」観から違うものに囲まれてたり、迫られて
いたりすると、「アイツらしくないかも」とたくさんの人が気付いてくれて、
「どうした」と声をかけてくれるのでしょうか。
ああ、いいものだなぁ、と感じ入りました。(曖昧ですね、でもそうなんです)

体、というよりも、気持ちが水みたいに「たまる」感じをうける人、いませんか?
私は毎日毎日まんがのことを考えています。いくつかのアイディアを思い付き、
走り書きをし、こねくりまわし、いくつかのストックがあります。
それらのもの「量」がいくつある、というのに意味がありません。
アイディアというのは「質」であり、「パンチ」です。
ドカンと一発!威力の話しです。

ですからたくさん時間をかけたところで、たくさん持っていたところで、
たったひとつの冴えた思いつきの前に「まいりました」ってなります。
こん棒を持った原始人が100人いても、マシンガン持ったひとりに大敗するもんね

それらのアイディアってのも、なかなか心に「たまる」ことがないと
するすると逃げ出していく感じなんです。ひとつひとつは大事なものでも、
持ってるだけじゃ腐る感じ、っていうのかな。

でもため続けていないと、大きなものには組み上がらない。
でもためあがる前にするするともれる。これが「不調」の感じ。

が、このごろ「きちんとたまる」感情が芽生えております。日常生活は
どんどん忙しく、周りもなんだか放っておいてくれない感じで
ああ、これはきっと、感情をたっぷり使う時が戻ってきたんだな、と思うんです。

しばらく、わたしはたたんでいた感情があります。
いろいろ感じるためには、感情をうんと大きく広げておく必要があります。
そのときには、大きく感じるが故に、大きく怪我もします。
大怪我をしたら誰でも静養するでしょう?してました、静養。

鈴木彩子さんや矢井田瞳さんがテレビやビデオで「わたしはたくさんのものを
全部背負って走る」といってくれた時に「ああ、いいことだ!」と感銘を
うけつつ、「いや、でもそれは背負ったまま走れる人がいう台詞だ」とも
思い、そうね、走れる人はそれで走るんならいいよね、と思いました。

私もいくつかの挑戦をして、じゃあ自分はどれだけは背負えるかをしばらく
ためして、ああ、ここまでは大丈夫。ああ、ここからはダメ。自分が壊れるまで
がんばる、というのは、とても間違い。自分が壊るまでがんばられても、周りの
人は怒るし、こまる。それにそれでは自分のがんばりのために、他人を巻き込む
前提で走るようで、ずるい。

しばらく壊れてた自分の中の枠のようなものに、きちんと修理がなされて、
きちんと感情がつもるように、たまるようになってきたら、それは自分が
自分に「もう大丈夫そうです」とささやくことで、それが「元気のはじまり」の
合図。

合図も気付かないままがむしゃらに「ガンバロー!」って叫ぶ人もいるけれど、
そいつぁちょっと無責任だし、他人事すぎる。
がんばれたらがんばってるよ。それが人間。

がんばれないから、がんばらないことにする。それでいい。

だから、がんばれるのなら、がんばってみる。それはありよね。

それにはたっぷりと、自分の中の気持ちが水のようにたぷーん、たぷーんって
気持ちがたまってなくちゃね。そればっかりはがんばれないし、じぶんで
感じるまで安心して待てなくちゃね。

人間の60パーセントは水なんですね。水ですよ。水が歩いたり、考えたりしてるような
もんですよ。
ね。
じゃあ、気持ちもどこか水みたいなもんなのかもしんない。

するするともれる間はゆっくりしていなさい。
ちゃんと、水がたまるように気持ちがたまってきたら、自然に人はいい気持ちになる。
そのために、毎日の小さなことや悲しいことなんかにいちいちがっかりなんかしないで、
「なんかやってくる面白いもの」を座って待ってるのも、なんだかいいじゃない。

そのために、あなたは、毎日、いつものあなたのままを、周りに見せていればいいのだ。
簡単なことよね。

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