ライブってのがどーもなんだかよく分からなかった。ずっとずっと
わからなかった。高校までとかにはバンド好きな連中がライブするから
見にきてくれよ、みたいなのがあっても、実際なんかテレ恥ずかしくって
直視できなかった。ま、演奏が下手なのに演奏側が勝手にいい気になって!
ってんだから、「ライブ」ってのが悪いってんじゃないな、とは思った。
実際、大学に入ってから見たライブってのはまだ上手な人たちだったり
するので、へー、そーかー、ふーんとかは思ったけれど、やはり生で
聴くってのはどーもなんだかピンとこなかった。
いい音楽を聞かせようってんなら、CDやレコードの方がアレンジにつけ
曲目につけ、凝ることもできるし十分ジャン、とか思ってた。
「ライブ・アンダー・ザ・スカイ」みたいに、ビールのんで昼間っから
うだうだして、カーニバル気分で半日以上ダランダランと聴く、のは
ああ、たしかにアリだな、とは思った。でもこれは「聴いてる」っての
とはちーと違うような気がした。騒ぎたい、とでもいうのか。
ブルーノートみたいな店でムードごと生音を聴く、というのも悪くは
ないけれど、これもなんだか「音楽を聴きたい」と言ってる人間には
なんだかどこか的が外れているような気がして、やっぱり腑に落ちない。
(あ、でもトゥーツ・シールマンズのようなおじいさん演奏は好きだな)
友人に誘われて見に行くライブってのも、バンドが顔見知りだったりすると
なんだかノッていいのか、ダンマリで通すか、どっちにつけ「ただ楽しむ」
をハナから許してくれなさそうで、つくづくイヤになってる。
んーで、そんな時に「アジアンのライブ、とりましたよー」と
知人に言われて「おー!」とは言ったものの、大好きなアジアンカンフー
ジェネレーション(我々は身内コールでアジアン、と略称しております)を
ミルには嬉しいけれど、はたしてライブてのはどーよ?的猜疑心で
んー、好きゆえに、好きゆえに、どーしよ、という変な躊躇が
重なって押し寄せる。
ライブかぁ、と。
CDのアレンジ大好きなだけに、木っ端みじんにそのイメージを壊されても
イヤーンだしなぁ、とか思いつつ、当日。
ナナイロ・エレクトリック・ツアーってことで、知らないバンドが
アジアンの前にふたつあって、ひとつめはなかなかプロ意識に富んだ
楽しいバンドさんでそれなりに楽しめた。
ふたつめのバンドは演奏も歌も上手なのに、やけに自分の方から
「次はアジカンなんで」とか言葉の端々にすねた台詞があった上、やけに
暗転も多く、んむー、ライブ、これだからぁ・・・とやけにシンミリきて、
さー、アジアン!ってことになって「ドカーン」と
その演奏を聴いて、「ああ、そうか!」
って思った。
曲が大好きで、こうしてここまでライブ聴いてるけど、じゃあ、なにを
しにきてるのか、とやけにしちめんどくさいこと考えてたけど、実際
「体験」してみてそーか、と唸ったのは「あびる」ように音楽尽くしに
なりてー!ってことだったんだな、と思った。
「未来の破片」「エントランス」「はるか彼方」などの曲を耳から
だけでなく、デッカイスピーカからの空気圧、揺れてる床、跳ねてる客、
叫んでるヴォーカル、ピカピカギランギランの照明、ここいらへん全部
ひっくるめて「あびる」!そう!あびるように音楽でマンタン!な状態に
身を置く、ためにおるのだな、俺は!とよーやく分った。
なんせアジアンのよーな音楽はあびた方が断然楽しいし素敵だし、
CDもいいんだけど、ここが音楽の妙なるところで、時には本のように
自宅でしみ入り、買い物のように屋外で楽しめ、今や演劇よろしく
ライブとしてふだん知らないアレンジの生演奏を聴く。あびるように聴く。
いや、これが、
これがなんとも気持ちよかった。
目の前に空気の読めないポッチャリ系がいたので、友人が体当たりして
撤去してる姿も楽しかったし、ダイブをいさめてるヴォーカルの
さめ具合もなんだか大人でよかった。つまりは、浴びにくる音楽に
伴うどれもがオイシイ気持ちになって体にこもるのだ。
こもるものを体に貯えて、ちょっとした熱となって、小出しにぼっ、ぼっって
自分の考え方やスピードのコントロールってのをジリーッとおん曲げてきて、
どーよ、アジアンのテイスト、ってみすみす自分にちっちゃな狂気を
試しはじめられる。
モッチロン、CDのアジアンも素敵よ。
「はるか彼方」って曲の西部劇みたいなドラムもサイコーよ。
あーれをさ、浴びたら、ちょっと、もう、大変じゃない?
うれしかったなぁ。
これで少しはライブ恐怖症が減ったかな。
浴びるために聴くってのはひとつのいい正解でしたよ、ハイ。