手塚治虫のまんがと最近のまんが

この春も新番組ラッシュであります。副業柄、アニメというアニメの
できうる限りを見尽くさなければならねーというウレシー悲鳴で
見渡してみる時に、ウンザリさせるのは、美少女ばっかりでてきて
いかにもオモシロないですみたいな作品もみすみす観ねばならないことです。
アニメ情報誌はなんだか番組寄りめの褒め言葉満載でいかにもどーも
あやしいのです。
下手なアイドルがオープニング歌ってたり、イケメンとかいう麺類みたいな
名前の人たちが古臭いセンスのダンスしながら歌われてもなんか勘違い
してるオッサン連中の影がみえかくれしてイヤーンですね。

んで、なんだか、自分がマンガに憧れた頃と、露骨にそのまんがってものの
扱われ方がみょーに変化してるなあ、とこのごろ痛切にかんじますので
エッセーに挑戦です。

昔、手塚治虫まんがが嫌いでした。トキワ荘の連中の「がんばってます」な
まんがも小学生心に「なんだよそれ」とやけに大嫌いでした。
「ドラえもん」も面白いとは思いましたが「ガンダム」とか「イデオン」とか
アニメがすげーことになってるときに「ドラえもん」はねーだろ、とか
エラソーな子供でした。鼻もちなりません、実にイヤンな輩です。
それでも将来漫画家になる予定でしたので、「火の鳥」は読んだのです。
スゴイな、手塚治虫!とは思いました。「三つ目がとおる」とか「七色いんこ」
とか「ブラックジャック」の世代になりますが、正直「マカロニほうれん荘」
「がきデカ」「東大一直線」「らんぽう」といったパワーギャグに
囲まれた中の手塚治虫は「きっと、なんだか、どっかで、すごいんだろうけど
時代じゃねーよな」って思ってたんです。
さらにまずかったのは、その昔「メトロポリス」も「新世界」も復刻版なんて
一切なかったのです。後年、図書館でそれを読み、ああああああっっ!と
津波のような感動を覚えたのはすでに成人を5年も越えてました。

んーで、昨今、本屋さんでまんが雑誌が売れてないんですってね。
そうでしょうね。どこもなんだか「勝手に育ってる」人を「時代だから」と
一時ひっぱって、雑誌ごとフイに消えてしまうことは何発もありました
ものね。どこかの雑誌に育ててもらってる作家さんというのが極めて
減ってきてる感じがします。まあ、これでもいいかもしれませんが、
スパンの短い単発振り逃げマンガばっかり連発された雑誌を喜んで買う
客層なんて被害者のような気もするんですが、どうかしら?

手塚まんがの頃にあって、昨今のまんがに欠くものはなにかしら?と
ふと考えました。なんだか流れ方が違うよなあって思ったんです。
手塚まんがの主人公がいきいきとしてた初期の作品はなんだか「物語世界に
翻弄されてる」主人公達がもっといたと思ったんです。物語そのものが
やたらに巨大で、主人公一人の太刀打ちで物語そのものがひっくりかえるってな
ものではないよなって分かるんです。主人公も決してそうした決意の上で
頑張ってるわけじゃないと見受けられる。
んで、昨今のファンタジー色あふれたまんが世界に見受けられるのは、
主人公達の意志に準じた世界観。なんだかちょっとがんばったらたしかに
その世界の偉い人やヒーローになりえちゃうサイズの世界観、のように
大きさがちんまりしてきてるのでは?という手の届く大きさに感じて
いるのです。いやいや、キャラクターたちがそう言ってたり、そう感じてる
ってなもんじゃなしに、「世界」の扱いがあんまり立派じゃない、
みたいなんです。みんなの知ってる世界の「使いまわし」には抵抗や挑戦は
ないのね、となんだかわかりきっちゃうんです。即物的ってのかしら?

手塚まんがの時代はたしかに世の中がそれほど複雑化してなかったのかも
しんない。この平成の世の中で物語の語り部であろうとするときに、
主人公達はだいたい「トラウマ」を抱えていることがリアルの前提になってる。
決して健康ハツラツの優良児ではなく、心の傷を物語の最初から持ってる
まま物語の1話の突入し、艱難辛苦の物語を経由して、カタルシスを得る・・・
あああ、これって健全じゃないよねえ・・・・病んでるよねえ・・・それが
リアルで、受けても、なんだかちょっと、戸惑うのよ。リアルなんだろうけど、
ホントっぽくなるのかもしんないけど、それって物語の大きさよりも
人間内面の葛藤ばっかり大事なんよねえ。

メトロポリスも新世界も、その物語がかたり出す世界の美しさの中で
やっとキャラクタたちの息遣いを見出せる。主人公もいろいろあったあとで、
きっとその世界に戻ってゆく姿を期待できるのだ。

ああ、じゃあ今の時代にあって、物語を経由して、主人公達はこんな複雑な
世界に戻ってこれるのかしら?とかミョーに思い入れが難しくなってもいると
思うのだ。どうしても、どこか「個人的な」了解で物語が帰結してしまうがちで
こじんまりとしてしまう。庵野監督の演出にいたっては、もうそれが意図的ですら
ある。ガイナックスの作品は「世界に挑んでみましたけど、こんな具合に
なりました」と赤裸々すぎる態度がハッキリしている。ジブリアニメだけが
宮崎監督の世界観にあぐらをかく形で、その健全さをちょっとテレながら
誇示してる。「ガンダム」では主人公達がすくなくとも作品世界に困惑して
焦って、困って、それでもその世界に生きてた。ここには物語を覆す主人公は
なく、王様すらも存在しない。物語は物語のスピードで進んでいる。
キャラクターたちの事情も頑張りも、物語の側ではなんの配慮もない。

実際、ガンダムという作品は、その「スペースコロニー」なるコンセプト世界の
延長上にある。Gガンダム以外はその物語は「ガンダム」の時間軸の上にある。
つまり「世界」の構築に富野監督は成功したのだ。かつて「虫プロ」を経由してきた
師の演出の成果は努力は個人のものでありながら、「世界」をつくり出すセンスは
手塚演出の上にあるようにみえてしまうのだ。「海のトリトン」「ジャングル大帝」
やはり世界が大きい。物語世界に翻弄されてしまうことすらある。
そしてそこにでてる世界そのもののデカさや素敵さにどこか帰結できる安心感が
あるのだ。ああ、主人公達がガンばって生きてきた上に、きっと好きで戻っていける
世界になれるだろうな、と世界を見やることができるのだ。

いいまんがってのはそうした懐の深い世界を持っている。私が「ファンタジー」に
うまくなじめないのは、その暗黙の了解の上にある「みんなわかってるだろう?
ほうら、よく知ってるファンタジーだよ」の変な「共有」を地盤にした世界に
私は自分のつくり出すキャラクターを喜んで、生かして、戻してあげられる
気がしないからだと思う。作るのが本当に面白いのはその世界であり、
帰るに、戻るに値する世界なんだと思う。98%のファンタジーはその物語の
もっとも楽しいはずの「戻りたい世界」の構築を破してる。それは怠慢からなのか、
憧れるに値する世界観をもちえないからなのか、特にそこに思い入れがないから
なのかは知らないけれど、とっとと一番オイシイところをあきらめてるのだ。

かつての「宇宙旅行」「地底探検」は新世界への憧れや発展を素敵に思わせた。
そこにあたらしい生活のシルエットをにおわせた。それは甘く、明るい世界だった。
そしてまだ映像化されていない風景を予感させた。そう、予感!予感させたのだ。

予感させた、こそがある意味ゴールだ。
あるのかも、って思えたそれは本当なのだ。

人の目を経由した風景は脳で再構築されて映像と化す。
耳を経由した音声は脳で再構築されて音が映像とリンクする。
その行程はサイバーパンクのようにスピーディで、家電のようにリアルタイムな
体感なのだ。
まんがも映画も小説もアニメもゲームも、結局、脳で再構築された、体感に等しい。
人間の「みなす」心の作用が、本当の生活と、物語世界をかろうじて混同を
避けてくれているが、それって「怖がってしまう」ほどに似ている。
だから「子供がゲームのせいで大人を殺した」とか言い出す人までいる。
大人の買春も援助交際もファンタジー以下の想像力の、妄想の産物じゃないか。
ゴスロリの高校生が両親を殺めてしまう時代にあって、そうした「脳世界の
世の中へのエクソダス(脱出)」は「実現」に似ているとは思えないでしょうか。

だから。
だから物語の、どの種類を心に秘めていけるかこそが、世の中の解釈への
大きな希望となれるってどこかものすごく期待を私はしているのかもしれない。
どうで生きるのなら、でっかく、楽しい方のそれを知っているに困らないでしょって
どこら楽観と期待の入り交じった本気があるのかもしんない。

手塚まんがの初期にはそれがあった。実際の世の中がまだ困窮と退廃の残った
生き方にあふれている時に、手塚まんがはなんと明るく、でっかく、豊かに
映ったことだろう。そのシンボルのような憧れ方ができた時代の人たちは
幸いである。それはすでに「実際の世の中」にあって「来るであろう未来」を
予感した、サイバーパンクのような「身と心の別離」を引き起こしていたんだと思う。
そのギャップを埋めてみせる!というガンばりが「戦後の復興」をたくましくも
楽しいものにしてくれたんだと思う。

ゆえに、現代の世界で世の中をアップバージョンさせる指針すらないままに、
あこがれようもないままに「まあ、まず頑張っておけ」程度にしか物言わぬ
大人連中に若者が「がんばります」って答えるわけがないでしょ?

そーよ、そうなんよ。大人がやるべきことが、もっとたんまりあるはずなんよ。
してないんよ。してないまま「大人然」としすぎだってのよ。人間のもっと
たっぷりしたところを世の中に戻すべきなんよ。さんざんがんばって燃えあがって
力つきてきた人間に「お帰り」って死ぬまで大丈夫な世の中であってほしいもんね。

江角マキコさんが年金払ってなかったのは「失敗」じゃなくて、「リアル」で
あると思う。仕組みが間違ってる世の中を赤裸々にしただけであって、謝るのは
江角さんじゃないよねえ?はっきりしてるよねえ?

「金色のガッシュ」が面白いです。腹の筋肉にきます。お笑いしてます。
絵柄がどーのとかじゃなく、作者の「笑わせてやりたい魂」が崇高に愉快だからです。
この絵をみて、ああ、なんだか手塚作品みたい、とうれしかったのです。
ああ、世の中は簡単じゃないけれど、立ち向かってゆく気持ちは単純な方でも
いいのかもしんない、ってちょっと思ったんです。その「思わせ方」が
うれしかったんです。気持ちが、その人の世の中への解釈を作り上げるんですもの。
ねえ?


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