士郎正宗作品とかジャパニメーションとか

今月に入って2度レイトショーに行ってる。両方士郎正宗作品で、
「イノセンス」と「アップルシード」。両方とも世界同時上映で、
両方とも「日本を代表するジャパニメーション」とか宣伝されてる。
両方とも現在の日本アニメの最高技術の駆使でできあがっていて、近未来を
舞台とした作品。片や電脳世界からイントロし、片や特種部隊経由の肉弾
世界からの帰還、のお話。

映像のクオリティはものすごく、アップルシードなどは珍しく「目眩」を
覚えたカメラアクションで、観客の視線を翻弄する。
両作品ともその音楽のクオリティの高さに驚けたし、すごいなー、って
思ってたのに、なんだか「腑に落ちなかった」のであります(ケロロ!)。

んで、「鉄人28号」とかをみて、あう!と思ったのは、ああ、そーか、
未来世界とか、SF世界に期待していたものが、違ったのねってことでした。

もちろん、鉄人の世界の方がすんなり受け入れる事ができたのです。
戦後だから、じゃありませんよ?鉄人28号の「仮想SF」と「イノセンス」
「アップルシード」の「仮想SF」に分け隔てができるほど、ながやは器用じゃ
ありませんことよ。いっしょ、いっしょですよ。

SFってのが、どこに私の気持ちを運んでくれるのか、が楽しみなだけです。
そんな見方で作品に向かってるので、わたしはその作品世界そのものに
憧れたいってどこかで思っているのでしょう。「イノセンス」はその
「ブレードランナー」に電脳世界をジョイントさせた、「退廃」の未来に
なんかとてもキューンと悲しくなりまして、美しくてもこーゆー悲しさは
ノーサンキューだったので、映像が美しくても、物語の語りが上手でも、
根本的に「こっちの世界はもうたらふくなんです」って感じてしまうのです。

「アップルシード」は全編フルCGで、ああ、日本の漫画のニュアンスを
うまく感じさせるには、これもアリかもなぁって思ったんですけど、
あの士郎正宗先生の原作にあった「ぬけ具合」、つまり「オチャラケ」に
走った言葉尻の遊びとか、ユニークなキャラクターたちの「人間らしい息抜き」
部分がなくなった、「真面目ばっかりの作品」だったのが悲しかったです。

攻殻機動隊の世界はド真面目に、加工しまくった演出をしても、作品世界
そのものがあらかじめああなので、「ジャパニメーション!」とか見当違いの
ことを抜かしてもいいとは思うんです。

でも「アップルシード」とか「ドミニオン」のように、士郎演出とも言える
世界やキャラクターがどこかファンシーに「遊んで」いる感じがでてこなくちゃ
物語り世界が死ぬニュアンスも大事にできないものかしら?とは思うのです。

「キャシャーン」とか「キューティーハニー」が実写化されますが、どこか
「8マン」の実写で失敗した教訓がないまま突っ走ってしまってる感じを
予感するのです。現代の作り手の「作りたい気持ち」が先行してしまってて、
作品そのものが本来向かいたがってきてくれたことを、チョイと横に置いてきてる
印象があるのです。

アップルシードの原作マンガの中において、デュナンにしてもブリアレオスに
しても「ドラマティック」に感情を扱っていないと思うんです。
主人公達に対して、作品世界は無関心に流れていて、世界そのものが自らに
課したスピードで流れていこうとする中に、デュナンたちは駆け足で
ほんのちょっぴりのベクトルをぶつけるので精一杯だったはずです。

劇場版ではあまりにデュナンが家族ってものの心情の上にたちすぎてるし、
ああいった「家族」の心情の上にたって、その「作品世界」を翻弄しちゃっても
かまわない人間像ではなかったと思うのです。

デュナン自己の「家族事情」で、ああまでオリュンポス世界をグワングワンと
振り回されると「お前んとこの家族事情で物語をふりまわすよーなお話なのかい!」
などと、士郎正宗先生ではきっとしなかったことに対する怒りまでわくわけです。

ブリアレオスもなんかすっかり残念な男に陥っていました。これはいけません。
ヘカトンケイルシステムについて「語る」なら、いっそ空母をいじってる
ブリアレオスがいたっていいし、それも原作の男の通りなら「フフフ」とか
笑ってる部分がもっとあると思うんです。劇中の博士達にしてももっと
「遊んだ」男達だったはずです。それがあるから、あの殺伐とした未来世界に
どこかかしこかの「抜け」が生まれて(ゆらぎ、ってのの方がいい?)
「世界」として憧れる未来が予感できたはずなんです。

ヒトミもポリゴン美人になって、あんなにホルモン放つ歩き方もしぐさも
いらーん!ヨシツネくんはあんなイケメンでエラソーなことヌカす男
ではなく、戦線にギューンって飛んでくるバイオロイドではなく、
地元のモータースで地道な改造をしては「ムフフ」と喜ぶ、つまらない
労働者階級だからこそ輝く!人間であったはずです。

つまり、原作の作品世界が描こうとしていた「きらんと輝く未来には
まったく住み手にかまわない政治があって、そんな中で主人公達は
自分にできる次元から世の中をタッチしてゆく」スタンスが
すっかり省かれてしまっているのです。

映画版アップルシードは「そのバイオロイドの世界をなんとかしてみせよう」と
いう、生真面目で、面白みのない、ありふれた「美男・美女」の連続で
ただ疲れてしまうのですよ、わたしのよーなロートルには。

もっと人間として間抜けな部分が、あの「オリュンポス」世界を許して
くれてたよーな気がするんです。士郎正宗先生はそれを描いてた気がする
んです。「ドミニオン」ではもっとそれが顕著でした。「ブラックマジック」は
もっともっと趣味的で、抜けがたんまりありましたから、楽でした。

士郎作品はきっと日本の「アニメ」とか「ジャパニメーション」で映像化
してもニュアンスが死ぬと思うんです。アメリカのコロンボとか
スタートレックくらいのテンションの続き物、として作るのがいいでしょう。
日本でいうなら「ビッグオー」はそれだと思うんです。海外テレビドラマの
粋、ってもんがハツラツと美しい。

デュナンは「家族」についてあんなに喋ったり、その「感情にふりまわされる」
人間像だと、見てて、なんか、もー、ツライんですよ。ブリアレオスも
自分の感情について、もっと「比喩」や「暗喩」「言い回し」に粋!が
ある人間ですよね。それがあの世界を「チャーミング」に許して、
それでやっとこバランスのとれてきた「美しく、悲しいオリュンポス」を
「アップルシード」って呼んできたまんがファンには困惑した気持ちが
残るのではないでしょうか。

そんな中で、やはり原作から引用し、改ざんを施した「鉄人28号」には
「イノセンス」や「アップルシード」のそれらとは違う結果を感じました。

(好対照に「鉄腕アトム」は「正義」な視野から作られ過ぎですよね。
『サーカスにうられちゃった過去のトラウマを持つアトム』からもっと
はじめるべきですよ。正義正義ってんじゃブッシュJr.みたいでこざかしい)


改ざん、には違い無いのですが、鉄人の世界はそこにまだちゃんと息づいた
キャラクターたちを歓迎できたんです。作り手の「作りたい!」気持ちよりも
「原作世界は素敵だったよね!」って気持ちの方を強く予感できるんです。
それをやっちゃうと「世界同時上映!」な作品にはできないんでしょうね。
でもそれは妥協だと思うんです。ジブリ作品はそれについて妥協しないでも
アメリカもヨーロッパも「理解する」ことができました。

「感性の妥協」とも呼ぶべき「受け入れ」ってものは、その作品世界が
安易に「相手に分かりやすい」姿でノコノコ出てこられると「けっっ!」と
いつか見下される感じを受けるのです。そういった点で「ジャパニメーション」と
副題されるアニメたちはいつもどこか「苦しい」のです、私には。
アメリカ人もヨーロッパ人も日本アニメに「憧れて」きてるじゃないですか。

下手に「アメリカナイズ」させたり、加工させたり、「感性」の部分を
グニャリと変型させてたことが後年外国人にバレたら、それこそガッカリ
されますし、「アップルシード」も「イノセンス」もこのままでは
士郎正宗先生の世界を「妥協したセンスも持てる」人として過った
先入観で宣伝させてしまう危惧を覚えるのです。

「スチームボーイ」にせよ、「アキラ」にせよ、「スプリガン」にせよ、
まぁたしかに日本でしか作れない世界かもしれませんが、日本のまんが文化の
素直な延長上にないような気がするんです。

鉄人28号のアニメにはそれの息吹が見受けられます。それが嬉しかったのです。
世界はそのまま。そのままで現代の技術を活かす。そのエッセンスがきちんと
生きてる、その姿勢のよさに感心できたのです。そんでもって、わたしも
その方向の人間でいたいな、って思ったんです。

映画「アップルシード」見終わってから「SFの仕事ってなんだっけ」と
とっくり考えました。もっとハツラツとした楽しさがSFってものには
あったんじゃなかったっけ?と単純に予感したんです。
「アップルシード」も「イノセンス」も、作り手の「真面目さ」は分かりますが
正直なところ、原作者のニュアンスを殺すことにはちと残念なことを
しでかしてる気がします。士郎先生はOVAで「ブラックマジック」監督を
自らされました。作品としては「んむ〜」かもしれませんが、それでも
士郎先生の「やりたがってたのはこれなんで」って気持ちは十分素敵に
できてましたから、あのニュアンスが少なくとも「イノセンス」
「アップルシード」は見習っておいてくれたら・・・って私は思ったんです。

CGものでしたらわたくし「雪風」はOKなんです。キョーレツな原作ファンには
「キシャー!!!!」かもしれませんが、ぼくはOKです。「見せ方」の
話しじゃないですものね。「活かすべき世界はどれか」という、選択の
オハナシのような気がしてきますね。ジャパニメーション、なる作品たちは
そこらへんがちょっといつもガックシなんスよ。ええ。

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