ツバメとマンホール少女

毎年同じところでツバメが巣を作る。去年とおととしも作った。
毎年、ツバメは5〜6尾生まれる。必ず1、2尾が巣から幼いうちに
落とされる。高さは2メートルはある。だから落ちるとほぼ戻れないし
間違いなく死ぬ。おととしは手ですくいあげて巣に戻したせいで、
手の香りがひなにつき、こうなるともう巣の中ですっかり邪険にされ、
飢え死にする。巣の中で仲間が巣立ったあとにひからびている。

これに懲りて去年は落とされたひなは直接触れないで戻したが
やはり一度落とされたひなは邪険にされる。親からもえさは与えられないのだ。
飢えて死ぬか、邪魔だとされて蹴落とされるかだ。巣は狭い。

自然は癒しのものなんかじゃなく、あっという間に死んでしまうのも自然なのな。
今年もまた一尾落とされた。ハネはまだ灰色で、翼を広げると翼の付け根は
まだ地肌の赤さの見える幼さだ。口ばかりが大きいのもいかにもひなだ。
同じ生まれの兄弟に蹴落とされて巣からまっ逆さまに落ちてた。
いずれは猫に喰われるか、車とかにひかれるか、の運命。とにかく生まれて
一ヶ月しないうちに死ぬ。

せめて草のある日陰に、と思って直にさわらにようにして、そっと草むらにおいた。
それが昨日のことで、今朝も気になって見た。姿はそこにもう見えなかった。
あの幼さでえさがとれるとは思えない。歩けるのかどうかもあやしい。
でもいない。いない、そのことに少しホッとするような気持ちと、せつない悲しさが
ごちゃまぜになっていやんなった。

弱いことが理由で仲間、兄弟、親から邪険にされて死んでしまうのな、ツバメ。
自然は生き物に優しくはないんだと毎年思う。

NHKの衛星でモンゴルにて貧困さからマンホールで寒さをしのぐひとたちの話を
見た。わたしはドキュメンタリが大好きなのでおおむね録画をしている。
モンゴルは市場自由化で、子供達が捨てられて、生き残るがために、マンホールの
中で寒さをしのぐんだそうだ。それが6年前の映像にはじまり、13、14才になった
もと・マンホール住まいをしてた男の子、女の子のその後のドキュメンタリだった。

親とソリがあわなくて飛び出した子、暴力から逃れるために逃げ出した子、捨てられた子、
親には出稼ぎだと嘘をいって都会のマンホールで生き残る子。
空腹を満たすためにごみをあさり、カビの見える果物を仲間と分け合って食べる。
ちっちゃくなった破片みたいな食事。でも子供の頃は、彼等はたっぷり歌ったり、
笑ったりできたのだ。

マンホールで成人した女の子の話もあった。16歳で結婚し、普通の家庭に入ったのに、
出産後、子供をマンホールで育てようとして、父親側に子供をとられ、会わせても
もらえない女の子の話だ。

現在のボーイフレンドは彼女に暴力をふるい、悲しくなるたびに彼女は自分の
会えない子供の事をくり返し悔やむ。彼女は今もマンホールで生活する事に
落ち着きを見い出しているのだ。家族もそこに住んでいる、そう、彼女の全ては
そこにあるのだ。

ダンナ方の家は裕福で、子供はもう4歳になった。ある時ダンナは娘に会わせて
くれたのだが、子供は母親が分からなかった。キスさせて欲しい、だっこさせて
欲しいと女の子は言うが、娘は怖がって、嫌がって、近くにいることを拒む。

面会時間は30分となく、また再び別れ別れになる。
彼女はマンホールの中で泣いた。
彼女はマンホールの中でアルコールでへべれけになった。
まわりのみんなが彼女をマンホールから出し、なぐさめようとする。
彼女は母にすがり「私は人間だよねえ」「なんで彼女は母親が分からないの」と
大泣きしていた。彼女は本当に一歳で離れた子供が自分を覚えてると思ったのだろうか。
とにかく泣いてた。さんざん泣いて、泣いて、泣いて、「マンホールに戻るぅぅ」と
泣き崩れてマンホールに入った。泣き声だけがぽっかりあいたマンホールから
こぼれるように続く。

ツバメの話と、このマンホールの女の子がどこかで合致した。
ツバメの生きる世界は容赦なく子供を殺した。
兄弟を蹴落とした生き残ったツバメ達は、今日もあったりまえの顔で親からえさを
もらってた。腹立たしいのは、親が「まったく変化なし」で黙々とえさを
運んでいる事だ。それを見やるいちげんさんの人たちは「ほほえましいねえ」とか
「可愛いねえ」とかいうけれど、巣の上でのうのうとピーピー鳴いているのは
兄弟を蹴落とした屈強なひなどもなのだ。これを「必死」って言うんだろうな。

マンホールの女の子は自分の生きてる世界を決して嫌がっているんじゃないように見えた。
家の裕福なダンナの生活がいくら「まとも」でも、彼女にはそれがいいものに思えない。
そこに、やすらぎが、見出せないのは本当なのだ。マンホールの中で、彼女は
のびのびとしていた。ただ、昔のようには笑わず、昔のようにも歌わない。
彼女はただ悲しいのだ。まったく「必死」じゃないけれど、自分の生きやすい
環境にいる限り、絶対に幸せになれないことをどこかで知ってる悲しさでいっぱい
だった。

生きる、というのはかくもつらく、悲しく、取り返しがきかないものなのだ。
お互いに馴染むことなく、妥協も無く、まっぷたつに、みっつに、よっつに、
ひたすら分化してゆく。

ツバメを見て、テレビを見て、わたしは自分になにかをどうしようってわけでは
ないんですけど、こうした本当さを忘れないではいたいと思うのだ。
このツバメの悲しさや、このマンホールの女の子の悲しさが、分からないところに
自分を持っていくような幸せのあり方だけはしないようにしよう、と思うのだ。

テレビドラマのような、小説のような優しさや、悲しさではなく、生身の
優しさ、悲しさから遠ざかってはいけないんだろうな、きっと。

生まれて、すぐ、死んじゃうっていうのは悲しいんだろうか。
なにもかもわかんないまま、おなかが空いて、おなかが空いて、さみしくて、
つらくて、あてもなくて、周りもよくみえないまま、ただ、死んでいくというのは
とても、なんだかとても、わたしはこわいのだ。とてもこわい。とてもとても。

そのとき自分がわかる精一杯のものでは幸せになれない人間ってどうしたら
いいんだろうね。なんてつらい気分なんだろう。どうにもこうにも逃げ出し方も
よくわかんない。

つらいよね、
かなしいんだよね。
でもさ、
よくわかんないまま「しあわせ」よりも、うんと大事な気持ちだと思うんですよ。

「許さない」気持ちは
「許したい」気持ちのあるひとのものであるように。
つらくて、かなしい人の気持ちは
どこかで、心底幸せを感じられるんだ、っていう間違いのない本気なのだ。
それを「体のどっかで分ってる」人の疑わない幸せなのだ。

なんとなく幸せ、である人間にはそうした深みがない。
努力無しにしあわせである人には、その幸せがどんなもので積みあがってきてるか
分ってないので、それがどんな形で、どんな色で、どんな重さなのかちっとも
わからないのだ。
わからない、そのことが、実は「しあわせ」なので、その人は気持ちのどこかで
「わたしって、わかってないよなあ・・・」と、そのわからなさ加減にガッカリし、
漫然と幸せのままの自分という「不幸」を少し、知ってる
場合が多いのだ。


来年もきっとまたツバメは来るだろう。
そしてまた春先に生まれて、夏まで生きられないひなをみるだろう。
でもそれはそれでそうなんだと思える人でありたいのですよ。
助ける、とか憎む、でなく、目の前のものを、そうである目でありたいんです。
こちらの、どの感情でこれをみても、それはどれも間違いだと思う。
人間の、私の解釈の入るところに、この件を持ち込むのは、なんというか、
ごう慢な気がするのだ。

マンホールの女の子には「町に出て幸せ」になって欲しくない。
彼女のしあわせ、は間違い、にしてほしくないのだ。
彼女は今、とてもつらいし、これからもつらいんだけど、
安易に「みんなのいう幸せ」では彼女はしあわせになれないのがはっきり
している。みんなのしあわせなんか、忘れちゃうことだ!

間違いのしあわせ、なんかあってたまるか。
なんか、それっぽいしあわせでなんかでくるまっても、染まっても
自分、という本当の前では、ただ苦痛なものなんだから。

来年も死ぬ、そしてまだ生まれてないツバメ。
まだ幸せになれないマンホールの女の子。
目の前のものは、目の前のものだけ、として、着色なく、腹に落とすのだ。
それは悲しいとかうれしいとかいうものじゃない。ただ、そう、なのだ。

知らんぷりも、目をそらす事も、都合のいい解釈も、間違い。
そういうズルさは、どのみち長もちしないものだ。

他人につく嘘よりも、自分につく嘘の方がキツいもんでしょ?

 

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