気持ちと地震

今は分かる。
人は傷付いても、傷つけても、次の傷を作ってしまうものだ。

加害者になってしまった人は、一度傷つけた、って事実がもう消えない。
「今度またやるかもしれない」気持ちがひとつ、ふえる。

被害者になった人は、自分は傷つけられたのに、っていういわれのない
憤りをそのままにしまうのが心底難しい。
「自分だけ?なんで?」という気持ちがひとつ、ふえる。

なかったことにはできない。
だからその気持ちのやりようがわからないままだとどんどんたまらない
気持ちになる。かといって、人に理解してもらえるものでもない。
自分でそれが理解できるのも稀だし、悶々としてるのは自分によくない。

連鎖、という言葉がある。
気持ち、というのはどこか電気のような部分があって
溜められないし、使ってみてやっとその存在が理解できる。
(電池、って電気がたまってるんじゃなくって、作ってるんだよ知ってた?)

ふつう、気持ちがたまると、吐き出したり、使ったりするのが人である。
機知に富んだ老人や、坊さんならそうした「気持ちにまける」ことはあんまり
ないのかもしれないけれど、それでもそれは一般的とはいえない。

新潟でひどい地震があったのに、ここまで政府が役にたってない印象に
なるのはどうしたことだろう?
この国は被災者に辛らつな態度をとる。
助けててもそれがうまく表現されてないせいで、まるでなにもしていない
ようにしか見えないのだ。

新潟で被災してる人々の怒りはどこにもっていったらいいんだろう。
21世紀に野宿をしなくちゃならない国って豊かなんだろうか。

気持ちが
気持ちがどこにも逃げられない、
この感じはどうしたもんだろう?

塞いでいくしかない気持ちって
どこかで暴力につながる。
(それをしないと自分がただ傷付いて終わってしまう恐怖から)

気持ちを
上手に受け止めるか、流せるように促すか
とにかく
そこにはためられない感情が渦巻いている。

気持ちの使い方がこんなに求められてるときなのに
わたしたちは、なんというか、ブサイクなほど、うまくできてない
一斉の非力さを、気持ちを、怒りに転嫁させないでほしい。どうか、どうか。

新潟の写真をみて思う。
もともと、もしかしてわたしたちは「止められないもの」の上に
「止めるもの」を置いて生きているのかも知れない。
道路が、線路が、家が崩れた。
それは「地面」がおおきく割れたせいだ。

地面は割れる、ものなのだ。
割れる、ものの上に「道路」「線路」がある。
割れる、ものの上なので地面ごと、割れる。
なのに、そして、驚く。そんなはずじゃない、って。

人命が水害でいくつか消えたり、台風のひどさで生きてきた風景が
まるっきりかわってしまっているのに、テレビをみると、なんだか
他人事みたいにバラエティやニュースが毎日のスパン通りにやってて
まるで自分達はおいてきぼりですよって、言ってくる暴力みたいにみえる。

つまり、「日常」ってやつが、「非日常」からは暴力に見えるのだ。
「無視」にみえるのだ。いっそ見えなければいいのに、そうもいかない。

だから、せめて、気持ちのやりようをうまくおしえて欲しい。

現実のいくつかが
私達の実際の生活から離反してる感じを、誰も解消していないのがきがかりだ。
こんなに役にたたない社会って、どこか、嫌んなる

大丈夫か?
こうした感情達を放置しておいて
大丈夫か?

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