疲れてても眠たくても気持ちががーって蘇るときがある。
アジカンのプロモを見ててそうなった。
なんかすげー量のアドレナリンがじゅわじゅわ脳から出てきて
朝5時なのにやたらにうれしくなってはしゃいでた。
アジカンはなんかどっか「その他」と違う。
ゴッチの持つどこか健康でない”言葉”はわたしたちに救いとなる感じが
するのだ。
それはテレビとかインタネットとかやみくもに美しく、便利で、元気な
世界が、自分達のリアルじゃない、っていう離反した気持ちに答えてくれてる
感じがする。
ぼくたちの実際は、もっち陰うつで、不便で、不元気なのですよ。
それをゴッチの歌やアジカンの曲はいい当ててくる。
ただそうした不便や不元気ってのを「悪いものだ」なんかじゃなく、
そっからスタートって示す、その正直さってものに惚れるのだ。
アジカンメンバーの正直なありようもいい。
基本的に自分達は凡人であるってスタンスはなんというか、
潔い。音楽だけが冴えててくれればいい。そういうのは、そのままこっちも
受け入れられる。
「ちゃんとした答え」みたいなまがい物が世の中に平然と出回っていらっしゃるので
そこいらにちゃんと違和感を感じた人はアジカンが大好きになれるはずだ。
アジカンに答えはないけれど、自分達で今を「とらえる」一助になってる。
そこまででいいのだ。そこまでで十分なのだ。
だって答えってものは、みんな自分で出したいのだ。
つまりつまり、「上手な質問」までを助けてもらえたら、あとは人がみな
個々で素敵な答えに突進をはかるものなのだ。
スカパでアジカン特集やってました。
みたかったアジカンのプロモは全部見れたので、もう満腹です。
(これのためだけにチャンネル契約したもんね!したもんね!したもんね!)
見てて思った。
かっこいい。
かっこいいもん。
カッコイー!
リライトも未来の破片もかっこいい。すごい。
でもやっぱ「遥か彼方」に気持ちは戻る。
アジカンをブレークさせた曲だ。
「崩壊アンプリファー」以後のマキシもアルバムも絶好調ですね。
そんでもこの「遥か彼方」はどこか「これ以後」の曲よりも
頭ひとつ抜きん出てしまうのだ。
それはネガティブな気持ちが基本線のアジカンの中にあって
この曲ばかりはどこかいい気分の目的地を私に教えてくれる。
新しいものを知りたいんじゃない。
ただ正直にその曲の作り手が気付いた言葉がまぶしいのだな。
だってさ、叫んで走って気付いていろいろ気持ちは迷って血走ってるのに
ハッキリしたゴールのヒントもでてきやしない!なのにこの爽快感。
つまりつまり、答えを欲してる風でいて、そうでもないことなのかもしんない。
「途中」であることの肯定。
「ふしあわせ」かもしんないまんまだけどそうそう悪かぁない、という位置。
歌い出しにある「踏み込むぜ、アクセル」なんだけど、
行き先がないもんな。わかってないもんな。でも踏み込むのよ。踏み込めるんだよ。
「ほつれる足
でも前よりずっと遠くへ」
体までついてこれないのに気持ちが人を遠くへいざなえるっていう暗示。
気持ちのいどころがアジカンの歌にはある。
居心地がよくなってしまうのだ。
居心地がいいからもどってしまうし、くり返してしまう。
でもそれはゴールにならない場所であるという種明かしは済んでいる。
だから長居も永住もできないことも合点づくだ。
それでも、それでも今はここがある、という静かな自信が
アジカンに出くわすまで「居場所」すら迷ってた連中には絶好の場所になった。
「こころをそっと
ひらいて ぎゅっと ひきよせたら
届くよきっと
伝うよもっと 」
そう。
そっと、開くのだ。
怖いから、おおっぴらにできないから、そっと、そっとひらくのだ。
「奪い取って つかんだって
君じゃないなら 意味はないのさ」
なんだよその結論はよ。なんにもつかめなかったってことだろ?
こんだけなにも示さないまま明るいゼ!未来はよ?って感じがイカス!
むしろそうした正直なホントさがものすげーいいのだ。
ものすげーいいのさ!!大好きさ!!大好きさ!!!!