この感情につける言葉はなんなんだろう

 

譲れるものは譲ってしまってもいいと思う。
でも心底大事なものってのは、それはおおむね「私」のものになんかに
なるものなんかじゃないし、そういうのは「私物」になるようなサイズで
おさまるのもどこか信じられない。
だから「手に入れる」ってのはゴールにするもんじゃないと思う。

それが「人」であるならいよいよ近くにいるとか遠くにいるとかが
私には問題じゃなくなってくる。だって「自分との距離」なんてのは、
その人の本来の魅力ともあんまり関係がない。

なにかを目指してる人間って、「どこにいるか」ではなく「どこにいても」の
場合だ。その人自身のそのときの「調子」ですら問題ではない。

「悲しくても苦しくても疲れててもやめないという選択」をする人であるからこそ
輝く、んでしょう?その非凡さこそが、本当の強さだし、

そもそも私が「近くにいる」「遠くである」ということで魅力に差がでるような
具合のものであるのを、そもそも私が承知しない。そんなものじゃない、って
相手より先に思う。

しばらく、
ワタクシけっこう疲れてました。
疲れきってしまってたのが自分で分かってたので愚痴になったり吠えるのも
嫌だな、と。かといって「黙ってる」のは性に合わない。

ただ、毎日が緩く、生きて進んでいるのは、「前進」と呼んでいいものなのか、
どうなのか、ね、とかいらんことを考えはじめたりするのよな。

成果を出したいとかそーゆーのもあんまり欲はない。
「今、やりたいことがやれない」ぐらいのものでジレるというのも、どこか、
しっくりこないのだ。

そーゆーんじゃない!
見通せるサイズの生き方には不愉快なものを感じるし、かといってなにもみないで
しゃにむにやる、というほど度胸はない。ぼんやりと自分に分かってる「期待」に
答えたくって、走る。

走り終わったり
休んでたり
いなくなったり
うんと遠くを並走してたり
歩いてたり
立ち止まったり
うつむいたり
振り向いたり
迷ってたり
全力で走ってたり

それを見てたり

私には、なにか素敵なものがわかっていれば、どこかそれだけで安心してしまう
ところがある。どこにあるか、とか近くにあるか、ではなく、
どこにあってもいいし、むしろ近くに見えないことをよしとするところがある。

私の近くにいる、いない程度のことで具合が変わるようなことにはまず憧れない。

振り返らない人を、私は、どこか、憧れている。
そしてそういう人を知っている。

そういう人のことを、読んだり聞いたり知ったりしたいのに、それはほとんど稀な
ようだ。実際稀であった。
でもその感情こそが、人を一番遠くへ、大きく運ばせることを、私が知っているので
私はそれを使いたいのだ。戦略ではなく、素の過ごし方、として。

エッセイ