昔、知っていた感情があって、それがまるまる戻ってくる
ことが世の中にはある。
年令を重ねてしまうと、その感情が今度は上手く応じられるように
なっていて、泣いたり怒ったりしない自分を見つけて、それが
あんまりにも上手で、自分がかつての自分と少し変わっているのだと
ようやく分かる。
それにつける気持ちは「さみしい」であり「かなしい」なんですね。
あんまり上手で、あんまりさりげなくさせてて、かつての自分からでは
「嫌」な気持ちを持つだろうな、って想像できる。
心に怪我をしないで生きる、なんてのは想像の産物。
なにがしかの変化や進歩に伴って、わたしたちは「かつて知っていた」ものに
執心してしまって、今、持っているものを失うことすらしてしまう生き物、
人間なんですね。
自分がしでかしてしまったことは、必ず報いる、という考え方を
私は宗教もなにも信奉しないけれど、自然に信じている。
今、でなくとも巡って自分に戻るものを信じてる。
そして私は「みなし」の気持ちの大きい人間だとも思ってる。
相手を「自分が見たいように信じる」ところがいつも大きくて、
時には相手を困惑させるし、相手がその理想像に近いようにあろうと
がんばらせてしまう。そんなのは苦痛でしかない人もいるというのに
私はいつも過剰な期待を相手に伝えてしまう。
そして自分勝手にがっかりしたり、悲しむことをどこかで待ってもいる。
じぶんが「みなしている」ことへの返礼はありうると、いつもどこか
分かってて、いざ「悲しい変節」があっても、心底それが悲しくても、
今はそれが「来るはずだった」と自分が身構えていることを、少し、知ってる。
少し、知ってる、という表現は、まさにそうでして
本当は知りたくない、本当、があることを、
私はいつも「見逃して」「見送って」やりすごしているのを
少し、自分で予感している。
だって本当に感じる感情はいつも「悲しい」だったり「さみしい」だったりする。
これを埋めることでいつもいつもたくさんの時間を使ってしまう。
夢見がちに生きていたいなんて思わない。すべては本当の生き方でしかないし、
実現する方法と努力していくべき点はなにかもわかってるから、そこへ
集中するセンスさえあれば、生きると言うのはずいぶん楽しくて、奇抜で
予想外の美しさを見せてくれる。実際今それをいくつも体験しているからいよいよ
そう思う。
ヤングどもが一時前まで歌ってた「強くなりたい」だとか「一緒に笑いたい」だとか
いう歌詞ってのに感じてた違和感は、どこか自分勝手なものに見えてたのかも
しれない。君が強くてどうなの?君が負けないからどうなの?そんな感情を
強くしちゃって大丈夫なの?大人って人たちはこんな歌を歌ってる人を放置してるけど
ええのん?助言はないの?世代間の助言する方法が私達にはないのかも知れない。
これはかなり格好悪いことです。
強い、とか弱い、なんてひらぺったい価値観なんかじゃ対処できないことばっかりでしょう?
だからホラ、本当に困ってしまった人には届く言葉もしのぐ感情も準備ができてない。
訳が分からなくなって、困り果てて「宗教」って人もいる。
それはあまりに準備がなさすぎたのだ。手ぶらで生きていくこと、をどこかできめてきた
返礼なのだ。
困ったり、迷ったりすることを、そのまま、そのように、受け止めているのは
そんなにわるいものじゃない。そういうのに器用であるのもいいものじゃない。
上手に生きるのは、実はそんなに面白くない。うん。面白くない。
今はそう思う。
かつて、自分が味わったものの中で最悪の感情ってのがあります。
で、それについては、誰にも私から味あわせないぞ、っていう決意だけはある。
私の近くで、私の届く人の中で、その感情に対面してる人へのちっぽけな
助言までなら喜んでする。
他人を傷つけて平気な人なんていない。
他人を傷つけて平気な人なんていない。
他人を傷つけて平気な人なんていない。
いない、と思う。
そして、忘れない。
少しも、忘れない。覚えてる。ずっと、覚えてる。
許すものと、どうしても許さないものを、ひとつの袋にいくつも詰め込んで
私達は毎日生きているのだ。それは袋の中でまぜこぜになって、あちこちに
散乱してるのに、なぜだか、「混ざらない」し、「無くさない」。
そして忘れてたつもりが、ふいにその感情を、スイ、と迷わずに
見つけだせる時がある。複雑に、ないまぜになった袋の中に手を突っ込んで
一発ですくいあげることができる。
不思議ですね。
とても不思議です。