このエッセイの一つ前ので自分で書いててハッとしました。
そういや俺、トップページではけっこううまいこと表現できてることが
あるなあ、って言葉がけっこうあるんです。
んで、今手許で残ってる分だけでもアップしてみようかな、と
集めてみました。
それが今回のこのページです。
季節も順番もめちゃくちゃだけど、私の言葉はひとつの線の上に
あるなあ、って少し思えたんです。
「そんなの以前から読んでるから知ってるよ、ながやー」って人は
読み飛ばして下さい
では抜粋トップページコメンタリ集。ドゾ!
ある夜、わたしは「スピード」を音楽からいただいて、すっかりいい気分になったのだ。
それはよく知ってて、いつもいつも欲しい、欲しいと望んでる早さと勢いと方向を持った
ものなんだけれど、一面懐かしいものでもあることを知ってるんだよね。ああ、そうそう、
これこれ、ってただ思うだけなんだけれど、それでもいつもいつも待ってたスピードであって、
向きであって、あんまりぴったりに「これでしょ?」とあるとき音楽の方からやってきた
もんだから、このフイ打ちまでやけにうれしくってね。スッゲーうれしくってね。
つまりぼくらはいつもたっぷりと「スピード」ってものを体の中にうんとためこんでいてさ、
それをいつもいつも「知ってる」つもりなんだけれど、いつもの生活の中ではほとんど
発揮したり、使ったりできないもんだから、ついつい「しまいがち」にしちゃうんだよね。
しまっちゃうと、その人の持ってる本来の「スピード」は静かに失速しそうな感じも
するんだけど、そーでもないんだよね。体のどこかでそのスピードはいつもたゆたっていて、
いつも流れていて、いつも「来いよ!来い!」って叫んでるんだな。
だから、人は時々探すのだな。その黙りこくってることにしちゃってるスピードを
掘り起こしたくなっちゃうんだな。がまんなんてできないんだな。
だってそのしまってるスピードこそが、本当のスピードなんだもの。
無理したってかくしたってしまったってダメなんだな。しぜーんとでるものなのだな。
で、あるとき自分のそとの世界からそれを「それーーーーーーーーーーっ!!!」って
放り込んでくれるひとがいるんだ。うかつにも、なんの抵抗もせずにただただ
「大好きだぁ!!」ってなっちゃうのだ。
キリリキリリと気持ちが絞りあげられて、急にスレンダーないい体躯になるんだ。
きもちがシャンとして、声がおなかの底からしっかりだせそうな感じ。
道を歩いてたのに、わけもなく走り出せそうな感じ。叫ばないのが不思議なくらいの
楽しさで心がうまるのだ。
今日みつけだしたそのスピードにはものすごくいい明るさのあるものでね、
ほら?あるでしょ?フイにものすごく好きになれる曲に出会ってしまえて、やけに舞い上がるあれだ。
まさにそれです。今日のわたしはそれなのだ!!!やったーーーーーーーーーーーー!!!
今のわたしがどぉ?ってんじゃない。本来の方向に自分が向かえてるときに、人には
たっぷりとした「スピード」があたえられるのさ。ゆえに、ただ、ただ、うれしい!!!
ひとはこころのいきものだからね。
だまそうったってだめ。かくそうったってだめ。
よくみて、よくさがして、本気で大きく楽しく笑うためにね、手抜かないで生きること。
小さく毎日を笑うのも素敵だけどね、大きく笑える人の笑顔にはやっぱり負けるものね。
でっっかく、本気で、高らかに気持ちがガッツまんたんになるように!!
それいけみなさま!!
水を飲んでる小学生をみた。
女の子で、真夏の日ざしの中、水筒からなみなみと飲み物を
注ぎ出し、往来のまん中で、持ってた荷物を股にがっちり
はさんで、ガッツまんたんなイキオイでガブガブ飲んでいた。
ああ、美しいと感じたのです。
おいしく飲んでやがる!と感激したんです。
なんにつけさ、人目ばっかり気にしちゃうような、どこか
「畏縮しとけ!」みたいなこの世の中で、子供って
やっぱり周りに起こってることをすっとばしてくれる
生き物なんだ、とやけにうれしかったのです。
「子供のうちだからね!」って大人が許してくれてきた
ことって、実は「大人が実はとめようのないもの」でも
あったりするんですよね。
そこに!
そこにこそ希望ってうまれるんだと思うんです。
現代っ子だろうと、ただのどが乾けば、それがどこか、
なんかじゃなく、かまわず水でもお茶でも飲む。
たったそれだけが大人にはやけに遠慮がちでね、
ものたりないって思ってた。
その子は颯爽と飲み干すと、手早く水筒にカップをして
カバンに水筒をすとんとしまって、夏の日ざしの中を
走っていきました。カッコイイ!いいぞ!子供め!
どこの誰かまったく知らない。
ただ、わたしが大阪に住んでたころに
天神祭りでフイにシャッターをきって
しまった子で、その写真はなぜか
いまだに持ってる。
凛とした目線に、ああ、この子は
しっかりとしたお父さん、お母さんの
いる子だなと思えた。
アニメやまんがやテレビにみる「子供」
ってやつがやけに「嘘臭い」ときに、
この「なんにもしてない」だけの子に
みつける「ああ、子供ってこういう
目、するよな」ってありかたがこそが
私には「リアル」だ。
写真を撮るときなどは、こういった
エッセンスが写ってるように、と
いつも心掛ける。
シャッターを向けられる時に、人って
ものは、変にポーズを自分なりに
用意してて、そこに写したいものが
写ってないことがまま、ある。
つまり、やけに「撮られ慣れしてる」
現代人ばっかりが写真にたまるとき、
「なにゃろ、この写真・・・」って
がっかりしてしまうのだ。
それが、この写真には、ない。
それが、うれしいのだ。
「プラネテス」毎週見てて、なんだかもう毎週泣きそうなのな。心当たりが
たんまりあるのよな。今日も三回見返してるよ。痛てえよ、心臓が。バクバクして
くるよ、もう。まいっちゃうなぁ。
傍役みたいな主役達で満ちてる世界なのでうかつに思い入れるともう抜けだせない。
ただ生きてると、なんだか忙しいだけで、このまんま歳をとっちまうんだなと漠と
憂鬱になりそうになるときに、この作品に触れると、パッと正気に戻れるのだ。
つまるところ、そんな「感じ」のものでぼくらは生きてるんだし、そんな「感じ」が
どんなか?はもっと気持ちを使うべきなのだ。かなうものならイカした「感じ」で
いた方がかっこよくいられるもんなのかもしんない。
そんな自分に喝をいれるべくデジカメ買いましたよ。写真で感性磨くんじゃ!と
いささか乱暴に、まぁ「先に決意ありき」ですよ。したわけです、感性使うのだ、と。
買ったからと急にどうこうなるもんじゃないんだろうけれど、ひとまず使って
みるわけです、感性。この武器は磨く程にユニークになる。ユニーク!
ラジオを買いましたよ。まるっこくてキュートなデザイン。これでどこでもラジオ聞き放題って
わけよ。ふっふっふ・・・・・なぜだ、なぜだ、俺。どーして何台もラジオ買ってしまうんじゃ。
部屋にもうラジオなんてあるっちゅーねん。今日のラジオにしたって、危うく復刻版の学研の
電子ブロック版ラジオまで買いかねない雰囲気だったぞ。なーんででしょうねえ。ラジオばっかり。
止まらないわぁ。
先だってELOの「フラッシュバック」、アライツ・エタ・マイデルの1STと、CDをぽんぽん
買ってしまってもいます。ELOはやっぱり美しいメロディだった。なんというか、その歌詞とか
アレンジとか分解した次元で語るのがかっこわるく思えるくらい、バランスとセンスが抜群。
アライツ・エタ・マイデルは忘れつつあった「情熱」とか「突貫!」みたいな突き抜け方が
もんのすごくかっこよくて、少女にも、暴れん妨にも、淑女にも、アニマルにも歌いわけ、
そのうえ気負いが感じられない。好きで歌ってんのよ、それ以外がなんだってのよ、って感じの
奔放さが、爽快さがバスク人のスピードがたまらない。
昔はなんでも一生懸命だったような気がするんだけど、
そんなに今と違いないんだよね。
できることはしてるけど、できないことはやっぱりしてない。
すごくなりたいわけじゃなくって、
自分なり、って言ってる割に、自分、ってのがよく
わかってない。
んー、でも
そんでいいような気がしますね。
走る時は精一杯、が一番気持ちいい、のは
今も一緒だ
Gペン派のながやでしたが、ヤンソン展に行って「ちっちゃい
絵っていーよな!」と例の思いつきがドーンとやってきまして
さっそく丸ペンとインク購入。んー、細い!エッチングみたいに
コリコリ書けばいいものを、なぜか主線書いたらいつものMac。
はっはっは。意味ねーじゃん!
シャーペンも0.3mmにしますと、なぜか書きたい繊細な
表情になぜか近付く。ふっしぎー。ナンタラは筆を選ばず
とかいーますが、願う感じに近付くんなら選んじゃいますともさ。
カレル・ゼマンのDVDをばどっかり買いました。
あーもー、いつまでこんな買い物の仕方すんのさ!て感じです。
でーもね、感性を使うのがスッゲー楽しいんですよ。
「自分への投資!」とか都合のいいことヌカして今日もウハウハ。
じゃ、みんなも元気だしてこー!
勝ってしまって負けてしまうことがある
勝つんじゃなかったと悔やむ勝ち方をしないために
負けるほかのない勝負ってのもある
ノーカウントにしないために
なかったことにしないために
負けも数えることを覚えた
すべて、あったことだ
勝ったら負けてしまうときに
それでも戦うしかないときに
君は勝ちをとるのか
それとも負けをとるのか
いっそ戦わないか
勝つとか負けるとかいってるから
最初から負けるのだ
ただ、こちらの本当さに専念する
それが分かる人に黙って味方になってもらう
そういう地味さを
ただ好きでいる、ってのもありだと思う
はしゃぎたいんじゃない
心底、喜びたいのだ
毎日自分が静かに生きていることを、どこかで「こんなもんだ」とか
言いそうになる時に、颯爽とある曲や映画が流れ込んできて
自分がうかつに過ごしてきちゃってることに気付くことがある
ああ、わかってたけど、やっぱりあかんわな、この生き方、とか
正気に戻ってしまって、こうなると我慢のしがいのあることしか
みない、しないことになるのでホント我ながら自分が扱いにくい
福井では酷い水害が起こってることをニュースが伝えて
それと同じ長さでジェンキンスさんの動向を伝え
いったいメディアってのはなんの商売なんだコンチクショー!とか思います
こんなにも助けられないもんばっかりだったっけ?
こんだけものにあふれてこんなに切ないのはなんなんだろう?
要る人に要るものは届かず、待機児童は保育園にも入れない
夫婦は共働きしなくちゃ生きていけない
2050年には36%が老人というこの国はどうしたいのかさっぱりわかんない
携帯電話で四六時中捕まえられる生活は囚人とどう違うの?
24時間のコンビニがなかったらやっていけない生活って「便利」って
単語であってるの?
なんで毎日毎日「自分は役にたたない!」って目の当たりにさせられる
ようなもので囲んでくるわけ???
こーゆーのはオカシイって言ってもいいんでしょ?
オカシイよねー。
毎日かすれるように生きてるのはホントーにトサカにくる
俺は怒るぞ
ちゃんと怒るぞー
しょぼんとヘコめるほど丈夫にできてねーんだ
ホントはもっと幸せなんじゃないのか!そー思うよ、俺は
なにを見る
どう見る
どこまで見る
見てどうする
見たのに黙ってるつもりなのか
見たままだと信じるのか
このまま座るだけなら見なくてもよかったんじゃないか?
見たからってなにができるつもりなんだ?
見ただけでなにができる?
見たままじゃ済まない
すまさない
「石ころみたいに 置き去りにされたのは
君でもなく
私でもなくて
上出来な嘘ついてた
あの日のふたり」
坂本真綾さんの曲はグザグサ刺さる。
出血多量だ。そこに菅野さんのアレンジの鮮烈さがとどめをさしにくる。
正気を保つように毎日を生きてる人間にはことさらこたえるような気がします。
スピードを得てしまうと、それは使わずにいられない素敵さで
それそこまで貯金してきたような生き方ってのをどばっと解約しまくって
ろくでもない考え方の方に猛然とダッシュしてしまう。ろくでもない?
(そうでもない)