私は「南極で氷を売る」という商売の基本の話がけっこう好きです。
南極にはきっと氷がアホみたいにあふれているけれど、その中で
そのありふれたものに、価値を見い出して、買いたくさせてしまうってのが
商売ってもんでしょう?って話しですよね?(勘違いしてたらゴメン)
でさ、普通の発想だと「氷にシロップつけて売る」とか「氷を加工して
売る」とか、なんかゴテゴテしたものにしちゃって、売り捌くことばかりに
執心してしまいがちじゃない?まぁ「付加価値」ですか。はぁそうですか。
それならまぁ売る側も買う側も買わないでもないかな、程度の発想は
生まれるとは思うんだけど、ここではそういう視線のさもしさにいきがちな
「発想そのもの」を駆逐するエッセイにしてみたいと思う。できるかな。
ま、できなくても書く。
今日さー「旭山動物園の奇跡」って本を読んだの。うん、今さら。いいじゃん。
ここの動物園にはパンダとかコアラとか「特別な呼び物」がいないんだって。
でもねでもね、動物の見せ方の上手さからガンガンバンバンお客がくるように
なるの。じゃあ市営旭山動物園に市は積極的に支援したかっていうと、
全然そうでもない。閉園の危機がかなり迫っていた動物園だというのがこの本で
よくわかる。
「動物が見せたいだけの人たち」がやってる動物園なのね。
え?他でもそうじゃん、って。そうね、そうだよね。
ここの園の人たちは「動物がもともと持ってる魅力」を上手に見せる方法に
凝ったんだよね。凝った、というのも結果論で、「もともと動物って面白いジャン」
が根底に流れてる感じがすっごく他人に分かって欲しいだけの人たちなのが
いいのではないでしょうか。
自分達が動物っておもしろーい、って思えたわけを入園者と分かち合えるように
それがただ赤裸々になるように、展示や広報を工夫しただけの人たちの素朴さは
「なにか目玉になりそーなモノ」にのっけからソッポ向いてて、「今あるので
十分面白いジャン」と脳内での切り替えがピカピカに冴えてる。
例えば「台所でお母さんが味噌汁作ってる」風景ってものを万人に「気になる!」
ものとして、そうね、じゃあテレビで見せることは可能でしょうか。
当たり前、の風景が当たり前で済まなくなる脳内のシフトを起こすためにはなにを
したらよいですか。
●味噌汁にゴージャスな食材を入れる
●台所がやたらにリッチなキッチンセットである
●芸能人のような人が調理してる
などの小手先なことを仕込めば、まぁ1度くらいは見るってこともあるでしょう。
でも「くり返し」は見ないよねぇ?
じゃあこれが
●「毎日自分が食べるものとして、自分を作り、その日一日の気分のありように
関わってくる訳」をドキュメントした番組でもあろうものならどうだろう。
実際、自分の母親が作ったものを食べて、飲んで、人は生活してるわけだけれど、
それが日々の「自分」の生きるいきさつに大きく関わってきており、実際その日の
自分のポテンシャル、スキル、テンションを大きく左右する結果をまざまざと
見られたら、「ああっ、味噌汁ったら!」って思ったりしません?
●食材が化学物質だらけだった
なんてなことであったら、その素材の入手ルートまで気になってくるよねえ。
・・・あんまり上手な例えにならなかったなあ。
どんだけ「自分に迫ってくるもの」として、目の前のものを「自分に向かってきてるもの」
と認識できるか?こそが旭山動物園のしでかしたことなんだと思う。
だって動物園にいる動物は入れ替えないまま、繁盛したんでしょう?
そこにいるものは一緒なんでしょう?
なのに、目の前の動物たち本来の魅力が分かってくる「仕組み」がダイナミックに
「みんな」に伝わるものになった。もともと持ってる魅力、にただまんまと
上手に「負ける」ことがカンジンなのだ。
本来、そもそも、魅力のないもの、なんてなものがあるんだろうか、って話しでもいい。
「自分は退屈な人間だ」「魅力のない、地味な存在だ」って人も世の中にいるけど、
「どう退屈であるか」「魅力、ってどんなものか」「如何に地味であることができるか」
などを探ったり、挑んだり、証明するだけでも、それはひとつ「愉快」に映える。
駄目な人であるなら、「いかにダメであるか」を証明するのもいいし、
「いかに駄目になってきたか」のいきさつをていねいに描きなおしてもいいし
「どんなにダメであるか」の駄目さ加減の強烈さを競ってみてもいい。
「我が輩は駄目であーる!」と、いっそえばってみてもいい。これはかなり愉快だ。
それはもう「駄目」じゃない。別のものになる。
要は新しいものってやつに日々私達は脳を刺激され続けるのをヨシ、としすぎてる
ために、旧来、従来自分に備わってきてるものを「過小評価」「見過ごし」することを
日々訓練し過ぎているのだ。うん、訓練。それも相当訓練してるっぽい。
全然駄目じゃないから。
駄目なもんを抱え込むはずないジャン。
人って、その時々でいいもんばっかり抱え込んでるんだもん。
そういうのの積み重ねが、悪いものになりようもないと思うの。
新しいもの、と「比較」して、私達は日々「がっかりする」ことにも慣れようと
してる。こいつも間違ってる訓練だよな。しょっちゅうテレビやラジオ、雑誌が
「新しいもの」をてんこもりにしてヨイショって差し出してくるから、
なんにつけ「自分の持ってるもの」とまざまざとくらべさせられる、ってことの
繰り返しが、どんなに「がっかり」を助長することか。
だからさ、
まずさ、
「比較」なんかやめちまおうよ。
んでさ、
ついでにさ、
「がっかり」もやめちまおうよ。
すぐには無理かもしんないけど、
「新しいもの」なんか放っておいても大丈夫だから。
「放っておく」
それはすぐにもできるでしょう?
耳を塞げとか、目をつむれっていってるんじゃないよ?
「がっかりしたがる自分」を鍛え、たくましくする訓練を日々つきつけられてるので
そーゆーのは嫌い、ってことにしなさい、って話。
いい?
放っておけば、人なんてーのはがっかりしたり、落ち込んでしまうように
できあがってるんだ。
放っておくからいけない。
気にしないで「やってくるもの」全部を相手にしているからくたびれてしまう。
疲れてる時なんかは特に顕著にひどくなるしね。
旭山動物園の動物と一緒。
「本来持ってるものに、集中する」ことでいい。
動物って「自分は駄目だなあ」ってならないじゃん。
そんなこといってらんないしね。
人って動物じゃん。
駄目だなあって言ってる暇、って自分に時間をつかってるよね。
それって愛よね。
ダメでもダメじゃなくてもいいんだからさ、そういう「他人に分かってもらう」
工夫をしてる時間を、もっと本来の「自分の愉快」に使うってのはどう?
日々、いろんな、まわりのなにかが「新しかった」り「すごかった」り
するからどうだってのよ。
「新しくて」いいじゃない。
「すごくて」いいじゃない。
でも君は君なんだから、「新しくて」「すごいもの」に囲まれてるだけの
君でいいじゃない。それだけでいいじゃない。
周りがすごくても、新しくても、
君は君でいいじゃない。
新しいものも、すごいものも、入れなくたって、君は十分。
自分の内側から溢れてくるであろう泉のような感性が生きてる内に
なんどか出てくるから、安心して君のままでいればいい。
それまで待てばいい。誰にもあるから。そーゆーの。
旭山動物園の動物が突然魅力的になったんじゃなく、「もともと持ってるもの」
をちゃんと見れるようにしたとき、お客さんは喜んだんです。
大事なのは「ちゃんと見れるようにした」ってところでしょう?
自分のを、ちゃんと見ればいい。
そんだけ。
そんだけ。