くらさのなかにあるもの

幼少の頃は暗いところが恐かった。私の部屋は暗い廊下の向こうにあって
夜などは部屋に入るためには暗い廊下を走り抜けねばならない状況であった。

ひとつは私が悪さをすると、父はよく玄関から、台所の裏から、私を
追い出した。寒いし、暗いし、とにかく大声で力の限り泣いて泣いて謝って
わけわかんなくなった。わけがわかんなくなるまで泣けた。

そのせいかとにかく暗いのが怖かった。なにかいる、と思うのか、実際なにか
みえるのか、子供は暗闇になにを見ると言うんだろう。
暗くて怖い、のだが、暗さそのものが怖い、というより、暗さの中に、なにか、
なにかを感じて怖いのだ。

知らないところに行くのもいやな子供時代だった。
なのに、いつのまにか、知らないところにも、暗いところにも、大丈夫になった。

大丈夫になってしまってふと思う。
なにを怖がってたんだろう。
今、見えてないってだけで怖がらなくなってしまった「それ」は一体
なんだったんだろう。もうそこにはないのだろうか。私が見えなくなってる
だけなんじゃないだろうか。それはただ感覚が鈍くなっている、というんじゃ
ないだろうか。

大人になって大丈夫になった、というのは、つまりは、鈍らせた、ってことなのかも
しんない。
おかげで平気で遠くに行くし、知らない人と話すことをいとわなくなったし、
暗い真夜中も、ひとりで出歩けるようになりました。
怖くなくなってる・・・というのは、なんか、こう、本当じゃない感じがする。

一緒に働いてる人にこんな話をした。
「いい社員さんってどんなん?」

「仕事ができる人」「一緒に働いていたい人」などいろんな意見が出た。
出た後で私は私の意見を言ってみた。
「人から『あの人を助けてあげたい』って思わせる人」。

言っておきながら、私はそうではない。理屈が先走るし、人よりもいいとこ見せようって
欲ばかりが先立ち、隙あらば人の先を考えがちな狡猾さは自分でハナにつく。
それでも、他人がつけいってくれる部分がなかったり、少なかったりする立派な人は
どうしてもひとりぼっちになりがちなものだし、おごるから、他者に厳しくなる。

世の中に起こることは間に合わないことばっかりだし、自分だけじゃ力も知恵も足りないと
みんな分かってる割に「自分がなんとか」と発奮する癖はいいかげん考えねばいかん。

相手に、自分を「助けてやりたい」と思わすだななんて、なんかこう、おかしい感じも
するんだけど、人は、自分一人の精一杯じゃ足りないんだよね。
他者を巻き込んでしまうときに「コイツのためならひと肌脱げるな」って、相手が
思ってくれる、思い入れさせるだけの器量のようなものが、人の大きさなんじゃないだろうか。

なにやるにしても、一人でできることだなんて知れてます。それも楽しいけどね。

そういうさ、「今の自分が見えてないもの」まで含めてなにか乗り出そうって思うのはさ、
よほど気持ちが大きく器になってないと、入りきれないよね。

最初に書いてた「暗いところにはなにかいる」って感覚は、いま、まだ見たことも知ったことも
ないものに対峙してる「妄想」なのかもしれないけど、そういう「おそれ」の感覚を
身体の芯に味わって置いてあるのは実はすごい財産なんじゃないだろうかってこのごろ
感じてる。

今、わかってないものまで含め持って、全部自分にでっかく返したいって予感だけを武器に
挑めるのは、若者だけの特権じゃないと思う。
年輩者はもっと冒険したらいい。若者がきっとそーゆー無謀な大人を見て尻込みするだろう。
大人が無茶すると、子供達は畏縮してくれるものだ。子供は子供でそういう大人に
ひるんでもいいし、立ち向かってもいい。それは子供自身が自由に決めてくれるからいい。

身体がいうこと利かなくなってくる大人が暴走すると怖いぜぇ。
若者の暴走はバカだからするけど、大人の暴走は周りの迷惑合点づくだから始末におえないでしょ。

ヒントは暗闇の中に感じたものなんだと思う。
それが「なにか」と特定されるものではないことは確かだ。
でも、こわいのに、わくわくしてしまうようなものにも、思う。

 

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