「誰とも喧嘩したくないんです」
「叩いたりしたくないんです」
そういう人がいる。年令はもう30だの40だののいい大人。
たしかにそう言うのは正しいし、悪くない。
憎んだり怒ったりするのも
憎まれたり、怒られたりするのは嫌なものだ。
おっつけそういうことを言う人は、優しいには違いない。
いざというときに、そういう人は怒れないし、憎めない。
結局、「誰も好きになれない」人。
返すと「誰からも好きになってもらえない」人。
憎んだり、怒ったりしないために、あらかじめいさかいや、争いに
近付かない性格に出来上がってるから、「見てみぬふり」をする。
そうした挙げ句に、それを人からとがめられると
「気付きませんでした」「知りませんでした」「分かりませんでした」と
堂々と嘘を言うことになる。
はたの人たちが困っていたり、弱っているのに、
「争いたくない」から「知らなかったり」「分かんかなった」ことにしておいて
あとになってそれを言うから、どんどん人にうとまれるようになる。
それを「大人」の年令の人たちが堂々とするので、いよいよ心がささくれだってくる。
「人を憎まない」ことを自分を守る考え方の中心にすえているので
「大きな優しさ」も「小さな優しさ」も等価値になってしまいがちなのも特徴。
「大嫌い」って言わないで済む状況であるなら、どんなことだって平気なのだ。
だから「たくさん助けてくれた」人も「ほんの少し通りすがりに助けてくれた」人も
一緒。
一緒なのだ。
だから相手が自分にしてくれた価値あるものの量が全くはかれない。
守るべき人も、助けるべき人もなく「みんな均等」と扱うほか、考え方がないので
みんなも「この人と関わるべきでない」と考えがちになり、ついで程度にしか
つきあえなくなる。
そんな大人は増えている。
一見無害の人に見えるので、そこにいてもかまやしないと思いがちだけど
実際はずいぶんと些細ないさかいが絶えない環境になる。
「誰も叱らない」「誰も悪くない」って考え方におさめようとするから、
実際目の前に起こるいさかいなどの、正確な対応ができなくなってるのだ。
「自分の見立てでは、誰も悪くない」という、その人一流の「ことなかれ」な
発想に、白黒つけたがる人とでくわしてると、解決ができなくなるのだ。
(もめる人というのは、そもそもはっきりさせたい人だしね。
はっきりさせないと次の一歩が踏み出せない、と白黒決め好きな人は思ってるから
今、目の前のいさかいで原因を知りたいので、「誰も悪くない」という結論は
到底飲み込めないものだ)
「誰とも争いたくない」人は相手の言葉が正確に聞き取れていない。
脳、の方が「嫌な言葉を聞き取りきれない」ようにシャットダウンする。
結局、自分の手前勝手な理屈をこねくりまわして出せる結論しかなく、
人々の中で「話しあって」結論に至る、という行程が「本当にできない」のだ。
それはつまり、社会で過ごすのに十分支障のある状態だと言える。
でも自分は「誰も傷つけてない」という時点でゴールしてるから、
気持ちがもう「他人」にまったく向かわない。
誰も助けてないのに、自分は助けられないと、とたんに「被害者」の顔つきをはじめる。
自分の防衛、が第一になってしまう上に、「他人を責めたくない」からひたすら
「助けを請う」か「混乱しっぱなし」かのどちらかになる。
みんなを一緒に扱ってしまう
それは殺人に近い無礼だと私は思う。
相手を憎む、以上に無礼だと思う。
一般人の顔つきをして、そうした中身のない優しさをふるまい続ける人を
私は厭(いと)う。