お坊さんの本をよく読むようになりました。それは別に死期画が近付いてるとかなにか
殊勝なことを考えてるとかではなく、自分に欠落したもの、栄養分がいるなあっていう
からだの欲求ではじまったものなんでしょうけど、テーラワーダ仏教のスマナサーラ
アルボムッレ師の本と、臨済宗(禅)の玄侑宗久師の本なのです。
師の本にて感じ受けるのは「業」というものの扱い方において、それそのものは
いいものとか悪いものとかではなく、自分が発してるものが、自分に返ってきている、という
考え方でした。それは自分が意識して出してるものなんかじゃなくても、つまり
知らず知らずの内に発してしまってたものですらも、それが自分の周りや、相手の人に
ヒットして、それが戻ってくるのだという、当たり前のことなんですね。
そういうのを聞くと「ああ、因果応報、ですね」と軽々に答えてしまうヤングが実際
いたんだけれど、この「因果応報」なる言葉もきちんと把握するとなると、ずいぶんと
含蓄のある言葉で、ヤングが会話の端々の「チョイインテリ気取りな安請け合い会話」で
出すには恐れ多い意味合いなのが分かってくる。オッサン連中がふってくる人生のウンチクに
まぁ応じておくか、程度に「機械的に」した返事に使ったこの言葉。実際そうした
「毎日をしのぐようにただ生きてみました」にすら、相応に「応報」されてしまう。
毎日人にあって生きてると、いいことも悪いことも困惑することも楽しいこともいろんな
感情を抱え込みながら、そういうのを混乱しない程度の量加減に控えて生きてるのが
私達。溢れる量の生き方ってのも実際できないんじゃないけれど、やりたいことだけを
やりたい放題にしてみたら、とにかくまかないきれない結果や、復旧できない結果に
たどり着いたりして、まぁつまりは「なんともならない結果ってやつに何度かたどりついて
しまって」怖くなって、量を抑えるようになるのが人だ。
でもそれも「自分が好きゆえにしでかしてしまった」ことでなら我慢も効くし、
結果も引き受けられる。自分がしたくない我慢になりそうな結果に、人はまずさきに
「手出しをしない」ことをふやしているものだ。
こういうので怖いのは「自分が悪くなりそうな結果には、あらかじめ手を出さない」と勘付く
前に「(自分が悪くなりそうなことは)その存在すら知らない」ってことに脳の方が
ブロックすることの方が多いように感じるのだ。
実際「思いやりのない人」というのはおおむねこういう人であることが多い。
ホントに気づけてないとはとうてい思えないのだが、「知らなかった」「気付かなかった」と
平然とした顔でいう。極端にいえば事前に気づかない訳をアリバイに仕込むくらいの
工作も「自然と」してしまう人もいる。
そういうのって頭の悪い人のすることだっていうのが世間の認識だけど、頭のいい人も
やっぱり同じでただ「手を打つ」量加減と事前か事後かの程度の差くらいで
ああ、頭のいいとか悪いとかっていう「計り」がすでに貧相なものだと感じ受けると
別のものさしで、もうちょっとまともなものはないかねーってことが、私が仏教の本を
読むはめにいたった訳ではないか、と思うのでした。
仕事をしていて、フイに社長が「当たり前と本人が思っているものは、自分では分からない
もんなんだよ」ということを若者に言ってました。ハッとして、自分もそうだと思いました。
若者に気付かせるために、社長は順繰り「最初はこう、で、次にこう、で、最後にこう、と。
すると、かくかくしかじかなことが起こって、で、結果はこう。そこで君はこう思った。
そうじゃない?」と分解して話すと若者は「ええ、そうなんです。」とすんなり答える。
「それは最初に君がこういう人であって、これこれこういうことをしたから相手はこう考えて
こうなった。違うかな?」と言われても「そうなんです」となる。
ハタからみると、なんだよ、そんなの当たり前じゃん、なことは当人では「当たり前」なので
「当たり前な、以上、そこをどうこうするつもりはない」になる。当たり前、なんだもの。
でも自分にとっての当たり前、は相手にとっての当たり前、ではない、ことが自分ではなかなか
分からない。当たり前、のものではじめたものは、おおむね他人にぶつかって、違う解釈から
ぶつかり、きしみをたてて、戻ってくる。もとの形から変型して戻ってきた「当たり前」から
発したものをみて、当人は「なんでこんなことになるんだ?」と発奮する。
(それは怒ったり、泣いたり、困ったり、弱ったりするなどの感情をはらむことがおおむねだ)
他人と一緒に生きてる以上、「自分の『当たり前』がどれだけ他人と共有できるような
『当たり前』になってるか」が生きやすさに秘けつになるんだろうけれど、人の数だけ
存在する「当たり前」は学校教育で一斉に修復・認識できるようなものではない。せいぜいが
「家族」の中でつちかわれる「一般教養」の中で「他人に迷惑かけちゃいけません」の
「その家族のいうところの『他人に迷惑』がどんだけのものなのか」にかかっている。
ところが昨今この「家庭」における「他人に迷惑かけちゃいけません」があんまりうまく
機能してないと来てる。ことごとくを学校教育のせいにしてるもんだから、先生たちの方が
機能不全を起こしてて、先生の登校拒否、に至らしめている。
先生が弱くなったから?いいえ違います。「俺は、私は悪くない。相手が全部悪いに違いない!」
という「当たり前!!」の発想が、そもそも狂ってるのです。
病院の緊急救急において先生が少なくなってて、亡くなるケースが増えてるのも、先生が悪い
なんてケースは稀だと思う。先生達は私生活のいくつかを削ってまで頑張ってる最中に
「緊急時は病院が対応して当たり前」という発想は間違ってる。いまや当たり前ではないんだし、
平時に「治療がヘボなもんだから患者が亡くなった。もっと慎重にしろ!」と先生に脅しを
暗にかけ続ける私達の「要望」が、いざというときに「失敗するくらいなら、断る!」発想に
先生達を追い込ませた双方の「当たり前」が出るだけのことなんだと思う。
じゃあこれを私達は「当たり前」で済ませられるだろうか。
「当たり前」の発想は、誰かを、暗に、追い詰めはじめてる。
その「当たり前」の認識をちゃんと把握する一工夫が、世間の教養の中でうまく見つけられなかった
ときに、先に挙げたスマナサーラ師と玄侑師の本はすんなり答えを書いてくれていたことが
私が読み続けることになる理由にある。
私自身、自分で自分のなにを「当たり前」と称してるか認識できないことが多い。
実際「当たり前」なことは、世間では「当たり前でなかった」場合が多くてたくさん泣いても来た。
でもじゃあ「そんなのが当たり前なのか!」とやはり怒りも抱いてきたし、そんなもんが
当たり前ってんなら、そんな世の中に手助けなんかするもんか!って怒れる若者を気取った
ときだってあった。でもそれは短絡だった。軽率で、生臭い正義だった。それでは怒った
本人は「発散」できても、それ以外の「ちゃんと、きちんと生きてる」人にまで実害を
与えかねない毒を孕(はら)みもった、ただの怒れる若者でしかないのだ。
世の中をグロスに「チクショー!!」な態度で扱うには、余りにその多くが普通に
いい人達である。そうなると発想や自分の「見え方」に問題はありはしないかと、少し覚めて
考える余地が生まれてくる。
「当たり前」と片付けるこの一言に、どんだけ自分自身で「真剣に考える」ことを端折らせて
いるかを自分に問い戻したい。おおむねの答えはこの中にある。
「馬鹿で、悪いのはいつだって他人だ!」と発想してしまう
自分のあり方が、本当に真っ当で、正確か、「当たり前」で逃げてないかを知るべきなのだ。
本当の弱さは「当たり前だ」の中をどんだけ勇気を持って自分が見返すだけの思慮をもてるかによる。
私達は知らず知らずの内に他者へ「当たり前だ!!」って思ってるものを赤裸々に発射し続けている。
今また、私のこのエッセイもまた、今の私が疑わない「当たり前」を一発見舞っている。
本当の知恵は「発する必要がない」ので静かなものであるといいます。じゃあ私のこの叫び達は
やはり知恵ではないのでしょう。私の持つ「当たり前」がまだ邪心にあふれてるものなのかもしれません。
「しれません」って書く辺りが、私の「当たり前」のラインを示していますね。精進精進。