カメラってやつは

先だって友人七海が私のカメラを見て言った「よごれてるなぁー」
うんそう。私の持つカメラはなんせ手がかけられていない。
ダスターでシューって吹く程度の手入れしかしない。

カメラがいくら高くても、貴重でも、あんまり手入れしない。
それは芸大時代のアンジェニュー付きアリフレックスSTでもエクレールNPRでも
スクーピックでもボリューでも同じだし、写真にあるZC-1000でもキヤノン1014XL-Sでも
扱いは同じで「ちゃんと撮る」以外のさしでがましい配慮は、なんというか、カメラに
失礼な気がするのだ。

レンズなどでも売り払ったり、他人に譲るつもりは毛頭なくって、雑にドスンと置くし、
砂の上でも草の上でもあんまり遠慮なく置く。

もちろん5Dでも20Dでも例外ではなく、海岸沿いでも平気でレンズ交換するし、
ほこりも映り込んでても「フォトショップで消せるジャン」と思う方だ。

映画撮ってる時には「女性をあおりで撮るなんて」とか「広角とか抵抗ないの?」とか
言われてみても、ピンとこない指摘が多かった気がします。
写真にしたって「そんなにズームレンズばっかりそろえて・・」っていわれても、
じゃあ単発レンズならいいかっていうと、正直ピンとこないのだ。
(デジカメで買い揃えの頃にズーム、広角、望遠に走った挙げ句、最後の最後に「50ミリ」を
買った、というくらい、普通のレンズに興味が届かなかった)
カメラだけでなく、ザハトラでもドリー台でも、「撮りたい絵」に役立つ使い方であるなら
水没しようが砂をかぶろうが、機材もきっと「本望」だろう!だよな!!

撮りたい絵が撮れりゃいいんじゃないの?

それは被写体とカメラマンの間にだけ了解される「いまここでだけ固定される写真」になれば
もう十分だと思うのです。

・・・こうして写真で見ると、なんかカメラ好きのように見えなくもないけれど、正直なところ
「カメラファン」でも「カメラマン」とも自分では、なんというか、思えない。
趣味・・・ってんじゃないんだよなぁ。
なんかうまく言えないんだけれど、少なくともフェティッシュではない。
マニア、とも違う(マニアにしては扱いが雑すぎる)。
カメラマンってほど突き抜けていない(映画もしかり)。

パソコンでホームページできた時と、イラストが自分の思う通りにかけるようになったときと、
カメラが使えるようになった時は、まるっきり同じ感情なのだ。
自分の内側から、上手に自分の中の「言い知れぬ輪郭」のようなものがパチリ、と出せると
できあがったくせに「ああ、そう、これよ」って、自分で出しておきながら、自分で喜べる、っていう
あの感覚。

だから私の写真は、私の脳内のイラスト、という表現が近い。
ゆえに、広角や魚眼、望遠が多用されるのだ。ゆがむし、俯瞰するし、あおる。
それは「写真」という私の「絵」であり、「作品」なのだから、世間的なカメラ一般の知識は
なんせ受け付けるのが後回しになる(最近やっとストロボ買いました。バウンスって単語もろくろく
知らなかったですよ、これでも昔パンフレットカメラマンまでやってたのにね!)

プロであるかどうかって前に、「まず自分が思い通りのエッセンスを自分の外に出せるか?」って
すごく大事です。それが上手にできるってことは、他人に渡す前に、まずまっさきに自分が
自分のファンになる。そこからこぼれるように溢れ出る気持ちのおすそわけで、作品ってのは
愛される。まずはたっぷり自分に注いであふれる量の愛に満ちる。

カメラがやっかいなのは、自分が表現したいときに、それに見合うカメラやレンズがないと
表現に窮するところがある。やむなくレンズを買うことにイソイソとしてしまうのだ。
ただいったん手に入れれば、「自分の表現幅」は格段の向上をみる。そのうれしさは、
まったく買うことができない、至福のものだ。とんでもなく、気分がいいものなんだ。

つまるところ、カメラは私の「ペン、紙」に同じ威力のあるものなのです。

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