分水嶺

同じ「人」という生き物なのに、言葉をつかって、しぐさを見知って、
お互いを認めあえるはずなのに、どこか、どうしても分かりあえないなあって人がいる。
「あっちの側の人だなあ」という、漠とした隔たり、見えない壁のようなものが
うっすら、見えない、存在しないながらに、実際ある。

人って物理的な「実際の距離」以外に、「心の距離」っていうのかな、気持ちがうんと
通じる人と、全く通じようのない人、ってあるのはなぜだろう。
どう工夫しても、どうあがいても、どこまでも合致しない相手と言うのが存在する。
それがいいとか悪いとかいってるのではなく、「そうである」といって認めるしかないのが
なんだか不思議なのだ。

「分水嶺」って知ってる?
水系、って言葉があるんだけど、日本でもさ、雨がざーっと降るじゃない。するとさ、
山に降った雨なんかは土にしみたりしても、流れた水は川に流れ出して、海に注ぎ出る
ようになってるよね。それがさ、日本に降る雨は、大雑把に言うと「日本海側」と
「太平洋側」に流れる訳ですね(厳密にはその他にもある)。
つまり、「どこまでの雨は、日本海側に流れ出す雨になって、どこからが太平洋側に
流れ出るか」を「分ける」線が分水嶺(分水界)。

「・・・・そんなの、どーでもいーーーーじゃん」だよね。
そうよ、そうなんよ、雨とか水なんてどーでも、とか思うよね。
でもさ、違うんだよね。川がどっちに、どう流れているかで、「水」があったり、なかったり
するわけで、これに絡んで「田畑」ができたりできなかったりするんだよ。川のあるところに
人の営みが生まれるんであって、水の流れが「国境」になってる。これはヨーロッパでも
多分に言い当ててるちょっとした定義。
人がどんなに蘊蓄(うんちく)言ってみたところで、その言動を表す生活の根底が
「たった、水の流れ」の延長上にあることを、軽視してもいいけど、どのみち行きつくんだよね。
なにかに言ったところで、必ず根底に「その水が、どちら側に流れていたか」によって
生活に歴然とした差が生まれてることに、気付くことになる。

実際、昨今の「ダム問題」で水利権がうんぬんと日本各地の知事さんたちが「ダムなんていらん」
「水も使わない」などと言ってはいるけれど、平成の世にも、今だ水がどう流れているかを
議論しなくてはならない状況にあることはうっすらと分かる。

渇水に苦しむ地域の人には、「飲み水がない」なんて次元ではなく「田畑が耕せない」という
切迫した「現実」で、無視のしようのない緊急事態に、即・つながる。
生活まるごとごっそりやられる項目に、即・つながるのが「水」なのだ。
震災が起こったりすれば、まっ先に搬入を考えるのが食料・水。そう、水は要なのだ。

その「水」がこっちがわにくるのか、あっちがわに流れていくのか。
それは死活問題を分ける「分水嶺」。
実は「国」の境すら左右する威力を内包した「分水嶺」。

冒頭に書いた「分かりあえない人」は、私には「分水嶺の、向こう側の人」のようなニュアンスで
見ている節がある。あっちには水が豊富にあり、こっちには水がない、という全く違った
生活をおくる人が、それでも隣り合って生きていたとしたら、フェアな精神は生まれないと思う。
水がどっちに流れていたか、で日々の糧が違い、飲める、飲めないが決まり、心根は変わると思う。

できる生活が、できる解釈が違う人同士が、分かりあえることを否定するものではない。
実際の「水」ではなく、心の持ち方に「見えない分水嶺」のようなものがあって、たとえ相手が
朗らかで、いい人である事が予感され、事実であっても、体の中の「勘」のようなものが
まさに直観として「こいつは駄目だ」となることを「水があわない」といいますよね。
まさにまさに分水嶺。心の分水嶺。

分水嶺を境に、水は全く「逆」の方向をゴールに流れ出す。
ほんの数ミリの着地点の差が、その水滴を「日本海側」と「太平洋側」に左右する地点。

人生も一緒。
どこまでも仲良しであっても、生きる流れの中でいくつかの分水嶺を経て、流れ落ちるゴールの海が
最後まで一緒、でいられる人はごく限られた縁の人でしかない。
近くに一緒に居る、居ないが肝心でもない。隣り合わせた水滴であっても、分水嶺の右、左に
それぞれ落ちれば、その水滴ふたつは「日本海」と「大平洋」に行きつく先は別れるのだ。

一方、そりがあうまいと、嫌いであろうと、同じ川の流れに乗ってしまえば、今度は
流れ着く海もまた同じ、という事象もあらわれる。同じ分水嶺域に落ち合えたことで
偶然同じ海にまでドンブラコ、である。これもまた一興。

惰性で生きる人、レットイットビーな、ケセラセラな生き方でも、人は大ざっぱな川の流れのような
ものには入ってるから、「まぁどこかにはたどり着く」ことになる。
「どこでもいい」ならそれでもいいけど、
時々「自分はどこそこの海にたどり着きたいのだ!」という強固な意志を持った水滴、人、というのが
発生する。これが大変なわけだ。分水嶺をいくつか越えることを、自分に強いるのだ。

分水嶺になるところは、「その地域で一番高いところ」なわけで、そこが一番高いからこそ
水はそこより低いところに流れ出すことができる。その「流れ」を「かんけーねー!」って
いうスタートラインに立つ、ということは「低いところに流れ出す」ことに逆らうことだし、
「高いところを乗り越える」ことだし、まぁつまり呑気にテキトーに流れてリゃいいのに、って
水が「ありえねー」反骨心をむき出しに、暗黙の「分水嶺ルール」をぶっちぎった側の海へ
流れ落ちることを目論む、トンデモネー希望なのだ。

人はそういうのを「夢」とか言う。
夢、って言われると「寝てる時に見てるアレ」なんだけど、あれと現実の「夢」って、なんか
どうしても合致しなくって、もっといい表現の「いいわけ方」できないもんかね。
でもまあ「寝てる時の夢」も「現実に持ってる夢」のどっちも「自分の頭ン中」で
考え知っただけのもの、という意味では、同じ存在でしかない。
ただ、前者のそれは「希望しなくても、見る」類いのものであるのに対し、後者のそれは
「自分のキョーレツな希望の権化」で無理矢理にでも持ち続けるパワーの要るものだ。

寝てる時の夢、は見てる本人のものでしかないけど、現実に持つ夢は、ときどき現実になり、
他者にも見たりつかめたりするものになるんだから、やっぱり同じ扱いはおかしい。

そう考えると「夢」ってのも、分水嶺があるよな。
あるところまでは「自分勝手な希望・欲望」とか「思い出したくもないのにワンサカ出てきて
見ざるを得ない映像」が寝てる時の夢で、あんまり本人のコントロールが役に立たないケースのと、
「自分は絶対叶えてみせる」とか、他人が見せてくれたことに発奮し、ハッスルし、なにがしかの
結果を出すに至るまでしがみつき続ける、といったコントロールがどぎついケースの夢。
結果、行きつくゴールを全く異にする「分水嶺」はどこにある、といえるだろう。

分水嶺そのものに意志はないだろう。
けれどそこに厳然とあり、結果を静かに左右する。白黒を全く分ける分水嶺。
なんか気にかかるんです。

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