普通は普通じゃ育たない
弟夫婦に赤ちゃんがやってきてもう1年以上がたち、いまや簡単な言葉を発し、自分の意志を持ち
身内には奔放な表情も見せていて、とても清々しいものだと感じる。
ただ、私にはなつかないのだが、実家に住まう訳じゃないから、姪の彼女にしてみれば部外者が
自分のテリトリーに侵入してきたという「不審人物」に感じることは、動物的直感としては
正しいのであって、これもいいことなんだと感じる。素直にかわいい姪なのだ。
あと、人間が一人育つ、というのは恐ろしく手間がかかり、それも無償の精神が根幹に備わって
いないと長丁場の「成長」というイベントに負ける可能性だってある挑戦なのも感じ受ける。
世の中のお父さん、お母さんに怒られるかもしれないが、子供というのは両親から生まれる存在で
あっても、人間としては「他人」がひとり、生まれでてくるものであって、父とも母とも違う
第3の存在であるから「誰のもの」でもない。おとことおんながいるところに「こども」が
あり、こどもは「育てる」ことを介してしか生きていけないものだから、おとことおんなは
父と母にならないと、こどもは「こども」であり続けられない。
世の中に生きてる人すべてはそうした「誰かが育てる」ことにしてきてくれた、連綿と続く
無償の「育てる気持ち」が育んできた連鎖の存在、と思うと、すばらしくも恐ろしい規模で
壮大な「育てる」努力、喜び、工夫、がんばりの上で、人間関係が積み上がっていることを
予感できる。
成人するまでは一人前じゃない、というタテマエの日本社会で、普通に育てあげるっていうのは
実にすごい努力や無償の奉仕精神のようななにかが「ずっと」あり続けないとならない。
途中で放り出すことも不可能ではないが、間違いなく一人の人間を「放り出す」ことになり、
少なからぬ禍根と憎悪と不信を残すことになる。それだけに、一人の人間を世の中に迎える
世界の父・母の優しさってものの深さに敬服できるし、尊敬以外の言葉も感情もない。
人が育つことは本当に意識的にも、無意識的にも「普通」の感性ではいられない。
突然病気になり、父とも母とも違う生活ペースと感情を放ち、食べることも遊ぶことも強要し
こどもはただこどもであっても、父と母はあらゆる「こどもに起こること」をすべて感受し
責任を持ち、許し、諭す。
自分以外の人に関わらずに生きてきた人ほど、こうした「他人が一人育ち上げる」ことの
すさまじくも質素で、でも豊かな行程に「喜び」や「苦しみ」など多彩な感性を味わとともに
驚いていると思う。
そして自分の両親が味わってきたものをはじめて顧みて、「両親はすごかった」とやっと理解の
突端を得て、かつまた自分が今まで「普通に育ってきた」となんらの感慨もなく生きてきたことに
どうしようもなく他人の努力と工夫と優しさでこんもりした気持ちを覚え、自分自身が我が子を
「せめて大人になるまで」育て上げることになる長丁場の挑戦と無償の誠意を眼前にして
喜び半分、不安半分の船出をする。
世の中の「自分は普通」とか思ってる人はそれに感謝するだろうか。
普通であってくれるだけでも、親としてはこの上なくうれしい結果であり、ただ「普通」であることに
どんなに手間ひまが、他人の人生を投入して時間もお金も若さも費やして努力して成り立ってるか
「知りもしないで」いられることに、ありがとう、と思える機会があるだろうか。
だって、放っておいたら、とたんに普通じゃなくなるっていう恐怖が常にある存在に責任を持つという
凄まじいまでの未開発の感性だよ。それを自分が死ぬまでは「親」で居続けることなんだよ。
ちょっとくらい「普通」じゃなくたって、ちゃんと成長してくれれば親っていうのはそれだけでも
十二分に「安堵」したって十分報われるくらいのことを毎日毎日してる。だから「特別じゃなくたって
かまいやしない。ちゃんと育ってくれれば」って親になった人はきちんという。きちんという、というか
切実にそう思うほかに持てる言葉も感性もないと推察する。
世にやんちゃな人や他人に迷惑をかける人がいるが、それでも「普通」であるべく、その人らの
親御さんは十二分に努力とか、自分なりのがんばりでその人に対面したから、その人は世の中に
育つことができた。ここにいう「育てる人」は実際の親でなくともいい。人が今、そこに息をして
生きてるだけで、その人を今現在まで生きながらえさせた「周りの連中一切合切」の関与しあっこが
連綿と続いたことで、やっとその人は、そこにいることを「許されて」きたんだとも感じる。
それに感謝をしろ、って周りの人にいわれても「そんなー」くらいにしか想像できやしないのも
また普通のことだ。
普通のことなんだよ。普通のことが普通では間に合わないんだよ。普通は普通じゃない努力の
バックアップで成り立ってきてる。感謝しようにも感謝の返しようのない部分たちも大勢関わって
いるから、自分の預かり知らない規模のものまで含めてできる感謝の返礼は、「自分を育てて
ここに今いることを許してくれた周りの全部にあらゆること」に、つまりは日々の周りのみんなに
ありがとうって気持ちで生きて「返してゆく」ことが一番なんだろう。
普通じゃないやん!あかんやん!って怒りにも似たもので生きることだってできる。
普通じゃないせいで自分は不幸になった、とか不幸せである、って結果に怒れることも
「今、そこ」に生きることを許されているからこそできる怒りでしかない。まず、あなたは
いまそこに「いる」じゃないか。
誰かが許してくれなかったら、そこにすらいられなかったことを想像すらしやしないさなかで、
怒ったり泣いたりしていられるじゃないか。
病気で亡くなってしまったり、体の一部がいうことをきかなくなってしまったり、いろんな思った通りじゃ
ないことに囲まれるにしても「生きてすごしてきた」ことを。なかったことにはできやしない。
自分でどうにかできることを、「どうにかする」にもできるし「どうにもしない」にも決められる
この自由さがすこしでも味わえるとするなら、まずあなたがそこまで生き続けてこられた周りの人に
最初に「ありがとう」だと思うんだよ。違うかな。ま、私はそう思うのよ。
自分以外の人にかかわり合って生きていくという喜びとか苦しさとか、感じ受けることそのものが
味わえる、または味わい続けなければならない、のが避けられないのであるのならば、
「いっそ、楽しくやり過ごす」ことの方に感性を置く方が、気分はいいものだ。
でもこればっかりは誰彼にどうこういわれたくないものだから、「不機嫌にやりすごす」でも
「怒りっぽく生きる」でもお好きにどうぞ、だ。「許さない生き方」もありだし、「近寄らない」のも
別段悪いことと断罪されるものでもない。自分という「一人の、普通の人」にまで生かしてきてくれた
無償の優しさたちに、あなた自身という存在のあり方で答えを見せればいい。
派手にするとも地味にすることも自由。あなたがあなたのありようで、答えをもう、見せている。
そしてもうひとつ。
今の駄目がすべての駄目じゃない。今日、いや、明日からでもその「あなたという答え」は
回答をきれいに変えられる機会を持ち続ける。
いつ、どこで人を好きになっても嫌いになってもかまいやしない。でもそれはあなたの答えでもあり、
あなたを育ててくれてきたくれた人たちへの答えでもある。
私はできれば素敵な答えになるとうれしいなーくらいには思ってるので、自分にも自分以外の人にも
見せられるいい答えが出したものだ。
他人に迷惑をかけない。
自分は育ててもらってきたくせに、他人には迷惑をかけるってのかい。まあいい、それも答えにして、
あなたがそのあとどう生きるか味わえばいい。誰も変われない。なにやったっていいけど、誰一人
あなたのやったことを忘れてくれないし、なかったことにしないことを重々頭ン中にいれて
覚悟してやれよ。お前が忘れるかどうかじゃなく、あなたは周りの人の中で生きてきたんだから
あなたの出す答えは、みんなにも響くものなんだ。そう、響くんだよ。
だから周りがあなたにしてくることも味わうんだ。あなたが放ったものは自然とあなたに戻る。
それだけに、「ふつう」に育ってくれるだけで親はうれしくって仕方なくって、とんでもなく
でっかい冒険の一つを、ユニークで変わって味わえない結果をこどもから手にするんだ。
それくらいの冒険に、弟夫婦は1年、いや、2年近く入った。願わくば素敵で楽しい綺麗な
冒険になりますように。もうちょっと大きくなったら、私にもなついてくれますように。
そして「ふつう」にいい子になりますように。