私がフィルムってものに目覚めたのはうんと小さい小学生の頃である。
アニメを作るとかたーく決意していた私は放送部に入ってアニメをやろうと
マジで画策していて、実際ザンボット3などのカセットのサントラをすでに
入手していた。と、いうのに、部でやらされたのは絵本などをビデオで
撮影し、アテレコしてワーイ、などという不愉快で子供だましなむかつく
作業であった。
実際の私がフィルム製作に向かえたのは高校生になってから8ミリカメラの
セットを入手してからのことである。このときに買いに出向いたのが
駅前の「鈴木写真館」であった。幸田と言う町の、駅の真ん前のカメラ屋で
ある。
その店で8ミリを購入したときはすでに8ミリは斜陽になってて、フィルムの
入手や修理ってのに一抹の不安が残っていた。が、その店のおじいちゃんが
こういった。「いつでも修理するでね。部品がなくなってても作ってあげるからね」
その言葉がうれしかった。本当かどうかの前に心持ちがうれしかった。
高校の3年間をフィルム作りで過ごし、大学でフィルムの勉強するために大阪へ
いった。大阪で8年うろつき、アイチに戻ってきてからもフイに8ミリフィルムを
買い出しにいったり、現像を頼んだりするのも、いつもこの店だった。
顔をみせるなり「ああ、ながやくん。今日はなに?」といってくれるのもなんだか
うれしかった。この初夏に撮った8ミリ映画のときにも現像はここで頼んだし、
これからもそのつもりだったのだが、このたび店を閉めることになったらしい。
なんというか、不覚なことにも「店がなくなる」なんて思ってなかっただけに
驚いた。幸田で唯一8ミリのことで無茶をいってもつきあってくれる店だったのに。
なにより、この店があることで、今の私が安心して8ミリをやってきてたのに。
実際問題、現像だのフィルム仕入れなどは他の町にもアテはあるし、なんとか
なるのだろうが、私はなんだか不安になった。それはなんだろうって思っときに
あの8ミリをはじめて買ったときの「いつでも修理するでね。部品がなくなってても
作ってあげるからね」という正体のない言葉なんだと行き当たった。
そのじいさんはすでに亡くなっている。遠の昔にいない人の言葉に、私は幸田で
映画をやってることに安心を覚えていたのか、と愕然とした。
邦画がヤクザ映画ばかりになってきているのは、レンタルビデオなんてのをバイトに
選んでいる私にはことさら顕著に見える。邦画のコーナーをみてごらん。ヤクザ映画が
全体の1/3を占めてる。もう1/3がエッチなソフトアダルトで、残り1/3があえぐように
細く作られている邦画というありさまだ。お客さんにすら「日本の映画っちゃぁヤクザもん
ばっかだでね(三河弁)」と言われている。
話は変わるが巨人のテレビ中継の視聴率が悪いそうである。フムフム、さもあらん。
その理由がどうも巨人軍の「いい選手ばっかり買い付けてきて勝ってもつまらん」って
あたりらしいのね。巨額な資金にモノをいわせて買い集めてきた選手で勝っても、
ファンは燃えない、というのがテレビでの巨人軍ファンの意見だった。
そう、巨人軍にいることで選手が伸び、育っていくことでファンってものは燃えてくる
のである。育ててもいない選手でガーンと勝ってもつまんない、ってのは理解しやすい。
それは日本の映画やお芝居ってものの事情とまるまる一緒である。日本にも昔は
旦那衆制度のようなものがあって、ひいきの芸術家とかにドカーンと寄付行為できた
時代ってのがあったけど、戦後の日本にはそんなものはなかった。
「企業メセナ」とかいう企業が芸術に金をおとす仕組みもバブル時代に騒がれたけれど、
おのずから日本の企業風土にないもので、長続きさせようにも「金、ねーんだから
ダメじゃん」と不景気に向かうや否や、まっ先に切り落とされるジャンルでしかなかった。
芸術にお金を使ってください、とは言ってみたところでなーんの意味もない。
それでも何か作る人には、心静かにあてにしているバックヤードってのが必ずある。
私にとって8ミリ映画はものづくりの主線ではなかったにしろ、原体験のような大事な
ところで、それを静かにヨイショッって持ち上げててくれたのがこの駅前の写真屋さん
だったのである。8ミリが好きになれて、8ミリから16ミリ、35ミリってのが
分かって来れたのも、この店があったからである。だから敬意を表したい。
辞めるって話がガセであることを願っています。