あらかじめそろったものに
あふれた社会にうまれた子供たち

このごろはすっかり高校生が犯罪者として自然な事件を連発している。
それもかなり凶悪で不愉快で、人を殺したり傷つけておいて事件後にすんなり
「ごめんなさい」と言ってしまい、「謝りたい」とかいう。
自覚なんてないんじゃないの?と思えてくるエピソードに満ちている。
「人を殺す経験がしたかった」とは正直ではあるが、実際に殺してしまう
ことができるのは最近のエピソードのように感じる。いや、昔からあったのかな。

「ゲームが悪い」とかいう端的な解答の出し方しかしてないメディアも
かなり不愉快ではある。ゲームを売れてるようにむけてる社会にノータッチで
放言するのは無責任。

このごろ思うのだが、「社会はどうにもならない」と思っている人間がたくさん
いるのではないか。この現実の将来を、自分達が「になう」だなんて思って
いないんじゃないか。
生まれたときから社会はすでに「今」のままで、壊れてなくなるなんてことを
体験してない世代には、この社会がいかに弱い結束で、かろうじてできあがっているものか
自覚がない。そして自分がなんとかできる!という気概を育てる環境にも巡り会って
いない。

なにか新しくやろうとする者にはあまりに社会を作ってきた人々の用意してきたものが
まどろっこしくできあがっていて、正直なところ「ぶっこわして進むしかねーだろ?」
と思うほかないような社会になっているって思う人はいない?
社会に出て、税金の仕組みも、保険や年金の仕組みも、なんて難しく、煩雑で、「わかりにくく」
できてるんだ!と驚愕した諸兄はいまいかね?理解なんてできないまんまに
とにかく払え、さぁ払え!ってことにばかりさいなまれた感じは受けないか?

若い人に与えられた社会における「新しいもの」はわずかだ。笑ってしまうほどに
わずかだ。圧倒的に多くのものを社会の老人たちが持って離そうとしない。
若い人が社会のなにかを担えるほどに成熟するころには、すでに腐っているものが
たくさんある。若かった人は先代の残した汚物の処理からスタートしなくてはならない、
そんなスタートを文句も言わずに押し付けられておいて、怒らない日本人ってなんだ!
ハッキリゆーてしまえば、年配の人たちよ、アンタラのやってきたことの恩恵には
お礼もいうけど、残してしまった失態の中で、若者達はがんばってるよ。よくまぁ
頑張ってるとおもうよ。若い人はもっともっと怒っていいと思う。

戦後は大変だった・・・という話は本当だと思う。生死のかかった生活を毎日していた
のだから、壮絶なまでにガッツが必要だったと思う。それにくらべたら今の若い人は・・・
という比較にはハラが立つ。今のこの生温い社会に育ってみろよ!とか思う。
この手ごたえのなさを、このはがゆさを、生まれてからずっとヌルイということが、
戦後に苦労して生き抜いてきた人に理解できるだろうか?それを壊さずに、ゆるやかに
それでいて自分の気持ちを守って生きていくと言うことが、どんなに器用でなくては
ならないか、年輩の人はわかっているのだろうか?器用さばかりを暗に期待されてきた
世代のたまりたまったうっぷんが、どんなに陰湿で恐ろしいものになってきているかを
無自覚でいる限り、高校生も中学生も小学生もひとをあやめることを増やしていくと
思う。
「それはそれ、これはこれ」と切り分けて、そのひとつひとつにイチイチ器用になって
生きてきた世代の子供はフツーじゃないよ。事の本質に立ち向かうクセをつけさせないで
来た戦後の日本教育のツケはこれから華開くと私は直感する。

生まれたときからとっくに出来上がってた社会の中で、若者はなにかしでかすには
壊すってことも考えるだろう。若者の本気に年配の人は面と向かえるだろうか。
若者も壊れっぱなしじゃいないと思う。優しさや弱さから壊れてきたものをとり戻す挑戦は
これから始まるという警鐘が、昨今の少年凶悪事件なんじゃないかと私は思うのでした。
そして、少年少女が「立ち向かって」くる頃には、社会はすでにその世代交代を
終えていて、本当の意味で責任を問われるべき人は隠居しているんじゃないか。
ゆえに、ぶつかりあう頃には「おれたちだってそんな中で頑張ってきてたんだ」などという
被害者の側にあった人たちと現在の被害者との対立にしかならないのではないか。
(これは世界の歴史のくり返しでもある)

この理不尽、この不愉快。僕らは僕らの生きてる時代の空気を吸い込んで生きているのだ。
油断も適当なあしらいもできない世代が生まれてきているのだ。彼等の怒りは
彼等のせいじゃないと私は信じる。

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