撃ちぬく人

自分が今どんな状態か?って結構映像として捕らえているのではないか?というのが
私の持論なのですが、このごろはそれが私にとって「スナイパー」だな、って
思える様になってきました。スナイパー、すなわち「狙撃手」ですね。
遠くのものをスコーンと撃ちぬくのが商売のアレです。

「トライガン」というアニメの中でやたらめったらに長いバレル(銃身)を
かついだ刺客が登場します。あんまり長いので、バレルの節々にちっちゃな
補助足のついたものをひきずるように歩いています。それをみたとき「あ、これだ」
って思いました。町の中にいる主人公バッシュに対して、町外れの丘からこの
やたらめったらに長い狙撃銃で狙い、発砲します。まぁ、脇役なので、かなり
あっけなくやられてしまいます。このイメージがピーンと食い込んできました。

なにかをする、というのは、みつめる作業でもあります。みつめてるものを
手に入れたり、触ったり、使ったりするために、人間は近寄っていくことをします。
スナイパーの狙うものは、いつも遠くの一点であり、おおむねはずしてはいけない
状況にあったりします。確実に、撃ち抜くのは集中力とセンスが求められます。

身近に起こる事態に頓着していると、遠くのターゲットを忘れます。自分が狙ってた
訳も曖昧にしてしまいがちです。多くの人の生活というのは、「遠くの狙い」を
忘れています。近くの狙いは撃ちぬきやすいですし、人に説明するのも容易です。
「遠くのねらい」は手に入るのか、思った通りのものなのか、かなり怪しいです。

ましてやスナイパーは遠くばかり見つめているので、近接戦闘の準備がありません。
ナイフを持った輩が3人もいれば、いくらスゴ腕のスナイパーもあっというまに
コテンパンです。かなりみじめに敗北を記します。

近接戦闘にコテンパンであっても、日頃のぶざまが続いても、もし、たったひとつ
狙ってたターゲットを手に入れる人のなんとすくないことか。
あきらめる、ってことに、大した手応えも感じないまま、なんとアッサリ自分が
たくさんのことをあきらめていることか。
そして、うっすら感じるのだ。たったひとつを狙ってる人を見てみたい、と
期待する自分を。

んーと、近くのことは、みんながエンジョイできてたらいいと思う。
私はブサイクな生活もありだと思う。ひとつ、撃ち抜くことがまずしてみたい。
トリガーに指をかけて、一発で撃ち抜く、というのをやってみたい。
近接戦闘で先にポックリいってしまうのかもしれない。長い銃身をひきずったまま
なにもできないかもしれない。
それでも、「狙ってない」ことで殺伐とするよりいいと思う。

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