絵を描くにしても物語を考えるにしても、音楽はとても大事な
要素になる。要素といいますか、イキイキとした絵を描くには
リズムがいるのであって、動勢っていうのは運動の表現であって、
つまり音楽なのですな。
素敵な音楽を聞いていると風景が浮かんでくるように、素敵な映像や
絵には音楽のようなリズムがうねっています。
で、あるからして、どんな音楽を聞いているかはものをつくる人には
大きな影響があると思う。以前、聴覚障害の人がなかなか運動するのに
みんなと調子が合しにくい理由を、この「音楽的リズム」に求めてた
番組を見たことがある。運動も音楽、リズムなのですね。
お芝居の先生と話す機会があったのですが、その時に日本人の言葉の
乱れについていってたことがあります。
「役者っていうのはね、言葉を使うお仕事なのに、使いわけができない
人が多すぎます。たとえば『小さな声を出してごらんなさい』といったと
しましょうか。
その役者さんは小さな声で『あ〜』とか言う訳です。では次に
『弱い声をだしてごらんなさい』と言ったとしましょうか。
するとさっきと同じ声を出すんです。演じわけられないんです。
つまり、言葉の解釈が頭の中でできてないということなんです。」
なるほど、と思いました。
「大きな声」も「元気な声」も「強い声」も全て演じきるような訓練を
頭の中でできてないのに役者とか、アナウンスを職にしてる人の
なんと多いことか、ということの一端を気付かせていただきました。
下手な役者さんは上の3つをどれも同じように「ガナる」だけですから。
返して言えば、通常の普通の人がやってる生活の中の演技こそが
もっともナチュラルでリアルということらしいのですが、これはまあ
人によって解釈の違うところなので、参考までに。
いい音楽はリズムをきちんと使い分けてるし、「強い」と「弱い」、
「大きい」と「小さい」、「高い」と「低い」をまず使い分ける。
間をのばし、短くし、音のもつ魅力の生かし方を意識しないで楽しませて
くれる。
無駄な装飾をしないでいい言葉、音楽をもっている人は長く人に記憶されます。
いくら話しても、人にうまくニュアンスを伝えられない人もいますが、
これはそうした点について、なんら意識を置かないからですね。まぁ、普通
置きませんが。
そうした前置きをクリアーした上で、音楽は風景を開拓します。
私はそれを作品に持っていきます。私が音楽で浮かんだ風景は、私意外の
誰とも同じじゃないですし、共有してないので、音楽から生まれた風景は
他人には面白いものになるのです。
ましてや同じ人間から出たものなので、さほど突飛なものでもなく、十分
理解し合えるものになるんですね。
「地獄とは・・・他人だ」といったイングマル・ベルイマン監督の言葉も
間違いではありませんが、「人間は自分が思ってるほど、他人と違いはない」
というオーソン・ウェルズの言葉の方がこの場合、適当というものです。
どんな音楽を聞いているかは、その人の心に描く風景の音感となって
人柄に馴染んでいきます。御飯といっしょ。食べてるもの、取り込んでいるもの
だけが、自分の体を作ります。取り込んでいないものは、自分のものにはなりません。
いい音楽を探しましょう。ま、大好きになれれば、それがいい音楽なのです。