かつて、ビデオディレクターなんてのをやってたことがあって、なんのかんのと
人をうまく使わなくてはならない時があった。つまり、世に言ういかにも
業界ノリで、持ち上げて持ち上げて人をいい気にさせたうえで、こちらの
要望をかなえてもらえれば、ディレクターの勝ち、という商売です。
で、女性に仕事をお願いする時に「ほら、なんてのかな、女性ならではの感性って
あるじゃない。ボクら男連中では発想しえない着眼点みたいなものからさ、
作品を作ってみてよ」なんて言うのである。
言っておきながら、こう書くのもどーかとは思うんですが、「女性ならでは」ってのは
なのも女性全員が持ってるものでもないし、女性の性格が皆、女性的ってものでも
ないんだから、なんとも乱暴で粗野なお願いの仕方してるよなぁ、とは思うの
でした。
確かに「女性ならでは」の着想は存在すると思う。少女マンガの世界は男性誌の
テンションでしか育ってきてない人間には異質にうつるし、楽しみ方が
よくわからない部分がある。いや、音楽にしても、文章にしても、どこか
生き残るための頑強さを男性の作品には感じるのに対し、「しなやかな」作りを
試みられるだけのスタンスが女性にはたしかにあると思う。
菅野よう子さん(ほら、また出た。ながやめ!って感じッスね)の音楽聞いてると
あ〜あ、やっぱ、すごい、と共に「発想が、こうはできない」って思えるところから
忍び込んできて、くやしいながらもうれしかったりするんです。
主張はしてきてるけれど、固くないのだ。力づくに逃げががちな部分がない。
それは作り手のひきだしの多さとは思うんですが、どうも基本的に発想が違う。
(ひきだし、とは作品を作る時に、自分が見知ってることを、いざ作品を作る時に
ひっぱりだしてこられる素材がどれだけ頭の中に用意してあるか?ってことの
例え話、比喩のようなものです)
「あ、少女まんがだ」と思うのです。
それも、少女マンガ心をしってる男性漫画家の少女マンガではなく、生っ粋の
少女マンガで育ってきた女の子がふいに表現できる、少女マンガのピュアな
部分からだけ発想ができる、純粋な女性的発想。
男性にはイマイチわかんないものからできあがってる女性特有の、女性同志では
意外に「そんなもんよねえ」ってとっくに共有してるものが、菅野さんの音楽には
感じます。(それ以上に菅野さんの音楽には個人としての着想の才能を感じます、
という前置きの上で)
返して言えば男性ならではの着想もあります。
男性でも女性でも人類なんで、そう突飛な差はないとは思うんですが、作品って
そのちょっぴりなあたりの差を印象づけるお仕事ですんで、自分にない着想に
であえる作品に向かうと、非常に胸が高鳴ります。
ふう、こうまで書いておいて、こういうのもどーかと思うんですが、どうなんで
しょうね、女性ならではのセンスって、なんといって表現したらいいんですかね?
たしかにあるのに、その輪郭をくくれる単語がないっていうのかな。
フェミニスティックとでももーしましょーか、(うわ)。
わたしにはけっこうそれがうらやましいと思うことがけっこうあるんです。