つまり、いなくなってしまうと、自分の中のなにかが壊れてしまう
友人です。他人なのに、もう他人でないほどの友人。かなりショック。
当たり前。
だって他人じゃないんだもの。
他人の中に、自分がいたんです。
ん?なんのことかって?
私の考え方を書きますね。人間って、体の部分と心の部分があるじゃないですか。
で、体の部分は自分の体でしかないけれど、心の部分は随分と自分の外に
広がっているものだと思うんです。
インターネットとか、電話でもいいや。おしゃべりとか盗み聞きとかでもさ、
自分の外から情報を仕入れたり、自分の外に情報をだしたりして、人間は
その人の性格になるものを出し入れしてると思うんです。あそこをなおしたり、
ここを切り捨てたりと、日々人間味を変更していっていると思うんですわ。
頑強な性格の人はそうした変更が恐い人なんでしょうし、スチャラカな人は
変幻自在に変更を気にしない人なんでしょう。
でさ、人って、その物理的な体の外にまで、性格を広げてる生き物だと思うん
ですわ。
例えば何の気なしに、町をあなたが歩いていたとしましょう。
で、フイにみかけた店に、友人が欲しい〜!と叫んでたCDを見かけたと
しましょうか。あなたはフトコロに余裕があったなら、CDを買うでしょう。
給料日前・お小遣い日前なら、「あそこで売ってたよ!」と教えてあげることでしょう。
で、友人は「ありがとー!」というのです。
あなたの中には友人が住んでいます。
あなたの脳のあちこちに、「友人」のスペースがあって、あなたの中に間借りをして
いるのです。あなたと違う趣向の仲間のために、あなたは友人の性格を心に秘めて
いるのですな。
かえしていうなら、あなたも自分の外に、何百、何千のあなたをみつけることが
できるでしょう。友人で、あなたを知っている人には、皆、心の一部にあなたを
有しているんです。お土産や贈り物を「喜ぶかな〜って思って!」と友人が
直感してくれたものは、おおむねあなたにはピッタリくるんじゃないですか?
あなたがそばにいるわけでもないのに、友人はあなたを知っていて、あなたを
予感しています。それは友人のようでいて、その実、あなたが友人の中の一部
なんでしょうね。だから友人その人本人が好きでもないものを、「好きかと思って」
と買ってきてくれたりするんです。
だから。
友人を失うってことは、悲しいのです。
友人も失うし、あなたも失うからです。
あなたも失うけれど、私のなかの友人も失うんです。
悲しいに決まってます。つらいに決まってます。
カウボーイ・ビバップというアニメの台詞に「あいつは俺の片割れだ」というものが
ありますが、あれはホントです。人間として、片割れにまでなった存在がいるか、
いないかは、生きる上の大事なんです。
友だちは多い方がいい!とかノーテンキに言ってるエッセイじゃありません。
私は私を知っている人のなかに、私を見かけます。そして、みんなの直感の方が
実際の私よりも的確に「わたし」であることがあります。
「ながや、これ好きそうだもの」「先輩、好きそうな気がした」だいたい当たってます。
悲しんでも、嬉しくても、人はそうそう意外なものではないです。
その人に感じた気持ちは、当たってます。それは、あなたの中に、あの人を
生かしているんです。
まったく話は飛びますが、今日、お店でビデオの返却を受けました。そのお客さんは
ビデオを返却してる間、ずっと携帯電話で話してました。私は身ぶりで「返却OKです」と
示すと、そのお客さんは目で「ハイ」と小さく了解の意を示して帰っていきました。
なんだよ、返却中くらい携帯離せよ、とも思えるでしょうし、
電話済ませてから返却したら?でもいいし、ま、こんなんもありかな、でも
いいでしょう。
でも小さく目で「ハイ」と言ってくれただけで、けっこう納得できました。
無礼ではありますが、その人は今、電話で、知人の人の心とつながっている最中
だったので、懸命なんですね。ビデオ返却なんてなミニマムなことに心砕く
余裕はないんですな。目の前にいる実際のワタクシの100倍くらいは電話の
向こうの人とのコンタクトが大事なんですな。それでいいと思うんです。
実際の距離はまったく意味がありません。
わたしの中に、そのお客さんは住んでませんから、わたしにはどーでもいいのです。
そしてお客さんの中にわたしも住んでいませんから、愛想なんてなくてもいいのです。
ですが、お客さんの電話相手の中には、きっとお客さんの性格が生きていたんでしょう。
それをみつけて、うれしくて話も盛り上がってしまったに違いありません。
これが「常連のお客様」になると、とたんに私の中にはたくさんの人が住んでいて、
今日もバイト後にお店の外でフイに出会った常連さんに「ははは、またきちゃった」と
気持ち良く笑顔で声をかけてもらえました。ニッコリ笑ってると、あちらもワハハと
テレながら店に入っていきました。なんら「特別なサービス」するってわけでもないですが、
それでもなんとなしにお互いの調子は予感できるし、面白いじゃないですか。
時々お客さんの好きそうなものを「ここにこんなものが」とオススメしてうれしがって
もらえた時なんて、格別うれしいですもの。
と、まぁ、友人の話からそれましたが、人は見知った人の数だけ、あなたを輸出
しているようなものです。数はあまり問題ではありません。家族でも友人でも、
気兼ねなく、あなたがあなたでいられるならば、あなたはあなたのまわりに、あなたを
感じて、居心地がいいのです。だから、友だちはすごいんです。なくしたら、悲しいのです。
大事にするんです。傷つけられたら、もっともこたえるのは、あなたを知ってる人に、
あなたを傷つけられるからです。自殺、自損なのです。どうりで痛いはずです。
いい友人、知っている人にはあなたがたくさん住んでいます。
かといって知人にとって「思ったような人」でいることに苦痛を覚えることもあるでしょう。
お父さん、お母さんに期待された通りの子供じゃない自分に苦しむこともあるでしょう。
彼に、彼女に自分じゃないものを期待されてつまんない!ことがあります。
それは、あなたの周りの人の中のあなたが、間違ったまま住んでいるから大変なのです。
あなた像、とでももうしましょうか、見せたいあなたがニセモノなのでしょうか、
相手が見たい、と願ってるあなた像、なのでしょうか。とにかく、実際のあなた、と
周りの期待してるあなた像、がズレていると、悲惨です。演じつづけるか、ぶっこわれるか
しなくてはならないからです。とても力のいることです。悲しいことです。
あなたが居心地のいいところでは肩が凝らないでしょ?
あなたに過剰な期待もなく、あなたに的外れな解釈もしないから。
ちょうど良く、あなたがあなたがいられるところ。それは幸せなところ。
いい友人にはいろんなことが秘められていますね。友人の中のあなたを、あなたは見てますか?