川の流れに逆らうようなもの

消防団春の部が終わってやれ一段落、さて漫画カクゾーと息巻いて
おりましたらお芝居関連のお願いごとやビデオ関連のお願いごとや
ビックリ企画のお願いごとが、まったく異なるベクトルから一斉に
やってきて、驚いてる昨今です。各企画、その企画者の実情も
赤裸々にお伝えいただき、皆必死の形相なのがなんだか大変なんだけど、
とても嬉しい。

「なにかやる以上、なにも起こらないってことはない」とかいってる
ワタクシですが、なにかやるって決めた人にはまさか!な事態が
襲いかかってて、スムーズに企画が進行してる人なんてひとりもいない。
そんな時のワタクシの非力なこと非力なこと。ただ、各々の人が
水面下の戦いをしてることだけは凝視してる。

三人いて、三人とも各々の企画で「これ、乗り越えなくッちゃ前に
進めないよぃ!」の連続だ。出会ったことのないトラブルの連続という
のは本当にストレスのたまるものだ。誰にも頼れず、自力だけでは
どうにも進まず、それでも前進するというのは、その人の本気具合を
自分に試してるようでもある。ホントに難しいのは「日常の生活」も
放り投げることが許されない土壌の上での戦い、ってことである。

若いうちはいろんなものを投げうって「自分の戦い」もできるけど、
年を重ねると周りがそれを許さない状況を教えてくる。
つまり、昔は「なにかしたぁい!」といってるだけでできたのが、
「よけいなことすなっ!」っていう人の中で「なにかしたぁい!」って
叫ぶことになり、よけいな負荷の中でのハンデ付きになる。
だから、重くて、走りにくいのは確かなことだ。

体を壊すほどの思い入れでもなくちゃ、進むってことが難しい局面に
立ってる人間は、輝いている。ブサイクで、露骨で、土だらけで、
細い筋のような期待、まだちっとも手にしてない期待をたどって
どうしていいやらワカランとめまいのようなものの中ですり足のように
ジリリ、ジリリと進む。

私はこれをずっと昔から感じてた。
中学生の頃から感じてた。
なにかやってみる、と決めたことに対して「やれよ」って言ってくれる
人はなんで、こんなにいないの?ってことが不思議でたまらなかった。
ろくろく考えもなく「いいんじゃない」ってのも「やめとけよ」ってのも
本人はアドヴァイスのつもりなのかもしんないけど、口慰みだな、と
思った。キチンと考えて「無理だと思うよ」とその理由を教えてくれるのも
親切なんだけど、ノーサンキューだった。かといって「なんでできると
思ってるの?」とか聞いてこられるのも嫌だった。

私は「できるって!」と直感してるんだし、それは言外の確信であって、
説明なんかできなくって、できるんだってば、と思ってるんだから、
「そうか、できるか!ヨシ、やれ!」
ってツルンと言え!ってのも酷だよな。分かってる。そんなの分かってる。
分かってる上で、「いいじゃん、やりましょう」って言ってくれる人が
ひとりいたら、私はもっと早く、もっと大きく踏みだせたと思う。

ダメな理由、うまくいかない理由を上手に言える人はたくさんいた。
その上で「そうだな、大変だよな。でもやってみたら、きっと面白いと
思うし、やった方がきっと素敵だ」って言う人は、なんでこんなに少ない
のだろう、とずっと思ってきてた。
だからその人が、ホントはどこまで行くのかなんて実力の次元だけで
その人を見ずに、「もしかしたら」「まさか」な幸運まで視野に含めて
「俺、やるんだ」って言う人がいたら、私は「やっちまおう」と言える
人になろうって思ってた。わかんないじゃん、人がどう進むのかなんて。
他人のことを分かる人はいないでしょ?
だったらさ、「できないよ」と同じくらいには「できるよ」って言える
人がいていいはず。私は後者でいく。

ホントに私がどう思っているか?の問題じゃないもの。
ひとりさ、「大丈夫」って言う人がいたら踏みだせるものがあるなら、
思い切るのがいい。
もしかしたら「アイツのところに行けば『やれ』っていうに違いない」って
思えて、最期の一歩が、たった一言あればできるのなら、私は無責任にも
「やっちまおう」と言う。それでその人が今持ってるなにかを失うハメに
なることがわかってても、それ意外に見据えてたものへ足が向いてるって
幸せでその人が小さく笑ってたら、ああ、よかったって思う。

もちろん例外なく、なにかに飛び込んだ人は、具体的に失うものを
目の当たりにして、動揺してショックを覚える。苦悩する。息がつまる。
分かってたハズのものが、意外に大きく、自分の心境に怪我を残す。
でももう進んじまってて、戻ったところで、戻った先はもとの形では
なくって、自分が進めた一歩の意味はなんだったのか、やっと理解する。

「ああ、みんなが『やれ』といってたものと、『やめろ』といってたのは
これだったのか」と分かる。
自分の生きざまにかかってくるものを見つめながら、ただ「そうか」って
思う。これは飛び込んだ人に分かる感覚。

本人がやりたいって願うことへ「やれ」って言ってくれることは希(まれ)
なんだけれど、もし、できたとして、たいていは川の流れに逆流していく
心境とスタミナがいる。でもさ、飛び込めた人には、できるんだよ。
本気だとさ、自分が用意したつもりでないところの力まで出てくるのね。
あ、俺ってこんなことまでできるんじゃんってことがツイ、と起こるのね。
今までだせてこれなかった、意外な自分のストックにウフフと驚くのね。
懐刀のような必殺技が、刃先をキラリと光らせて、「俺の出番!」と
叫ぶのね。短刀でも切れ味があったりするのね。なんせはじめて使う
ものだし、なんせ高ぶってるし、なんせ今まで、まだ、失敗してないし、
つまり、「思いきれる」のね。それは、そのことが、あなたを、未だ
達してない、意外な高みへと運ぶことになったりするのだな。

そんでいいのよな。
結果も大事だけど、それ、そこに達するまでの決意の仕方がわかった人は
次はひとりで思いきれる、それが肝心なところ。
で、人に「やってみなよ」ってその人がいうのなら、信じられると思う。
アイツがそういったし、できるかもって、またひとり、思いきると思う。
そこが肝心。

冒頭に書きました「飛び込んでる」人たちは、それはもう頑張っております。
とてもビッグサイズに困っておるのも承知しております。
(へたをすると人生が急カーブを描くほどに!)
わたしはそれを見てます。結果はその人が出しますが、それを見てる人が
ひとりくらいいてもいいと思うんです。力にはなれませんが、「俺の死に様を
みやがれ!」とアップアップな様は、その人が、もうすでに、別の表情を
生み出してて、希(まれ)な顔なんです。滅多になくて、いい顔なんです。
つまり、それだけです。

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