よくきく言葉

このごろ、よくテレビなどでアイドルって人たちやゲイノージンって
自称する人たちが台詞や歌や受け答えで「負けたくない」とか「強くなりたい」
とか連呼してるのを聞いて「ふーん」って思うことが増えた。

そんな簡単なものが目標でいいのかしらって思ってしまうアタリ、年を
重ねたのか、俺?って思ったりもする。遠藤淑子先生の漫画を読んでいたら
こんな考え方でいなくてもいいことが少し分かるはずなのに。

弱い人間や、負けてる人間は嫌なんだろうか。
つらくて悲しいことなんだろうか。

弱くて悲しくて負けてるから、人は工夫をし、発明し、優しくあろうと
するものじゃないですか。「強く」なって「負けなく」なってしまうことを
めざすのは悪くないけれど、そうすることで失うものについて、とんと考える
こともせずに強くて負けなくなってしまっていいのだろうか。

人間の面白みってものは、人の弱さとかヘコんだところから生まれている。
強さや勝つってことから人間味は生まれにくいし、察しにくい。
人間味の豊かな人は「強い」だろうか。頑強さってものと「人間の強さ」って
もの、どっちも「強さ」って単語だから混同しやすいけれど、強さよりも
「豊かさ」をめざして欲しい。安易に「金だぁ!」とか「地位だ!」ってのも
いいんだけれど、「強く!」よりは「豊か!」の方がいい。

明るく楽しく健やかにってのもさ、疲れるのよ。
自然に楽しくいられないってのは、悲しいことじゃない?
頑張って強くたって悲しくない?
いやいや、頑張るなんてくだらない、といってるんじゃないのだ。
「日頃から力の入りっぱなしな状態がジリジリ続いてる上での幸せ」てのは
人工的な幸せすぎて、不自然で、疲れるなぁと思うのだ。

日本語に「おさまり」という言葉がある。
あるべき場所にツイ、とおさまることで、いろんなことが無理なく、難なく
存在していられる状態、が「おさまり」。
誰かがこうしてやろう、ああしてやろうって狙って意図的にあるものは、
その野望や魂胆の質の悪いものほど、「おさまり」がわるくて、不細工に
なって、崩壊する。
キチンといろんなものの状態を把握して、少しずつ組み立てていく時に、
無理なくあるべきものを丁寧に扱っていけるのなら、新しい「おさまり」を
見い出して、チョコンとそこに新しいのに「おさまり」が誕生できることがある。

新しいことをする、というのは「おさまり」の発明でもあるのだ。
強くても勝ってても足りない感じのする時は、おおむねこの「おさまり」の
精神が足りない。賢くても力づくなものはうまくいかない仕組みなのだ。

「漢方薬」と「洋ものの薬」のような違いといったらいいだろうか。
漢方薬は人間を「フツー」の状態と「それ以外」の状態に分けて、「それ以外」の
状態にある人を「フツー」にしようと作用する。
一方、「洋ものの薬」は「寒い!」時には「暑い」の方向へ進ませ、「早い!」ときには
「遅く」させるといった、「反対方向へ向ける」作用を主眼にする。

かなり大雑把な暴言のようなカテゴリだけれど、「おさまり」の考え方は漢方薬の
考え方だ。「強くなりたい!」とか「負けない!」ってのは洋ものの薬の考え方だ。
すとん、と自分の位置がわかってないうちになにかはじめたって、うまくいかないのは
自然なことだ。自分の感情の弱いところの、ただ反対の方向へ憧れてるだけでは
なんというか、ひどく物足りない。

弱いところにまで潜む、自分像を直視してみると、それが簡単にやっつけられない
ものであることが分かる。弱い自分だろうと、自分が一番いいと決めてきた
自分だから、ホイホイと切り捨てるには惜しいくらいの存在理由があるものだ。
「弱いままでいい自分の部分」を大事にできる人は魅力的じゃない?

人生のいろんな局面で、人間はケッコー疲れる。
疲れた時、言葉をかけてみたくなるのは、「強い人間」なんかではない。
私達は、それほど強い人を希望していない、とすら思うのだ。

だからもう少し、言葉を選んで欲しい。
強くなくていいよ。負けててもいいよ。君が好きな君の方を大事にしといてな。

 

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