小さいころにわからなかったもの

小さいころにわからなかったことがいくつか分かってきた。
「詩」と「ジャズ」は少し分かってきたような気がする。

詩、とはあの素敵な「詩」そのものというよりは「詩的」なものを
なーんとなく「いいものだ!」と思えたってくらいのものだ。

このごろでは「くるり」が分かりやすい。
くるり、というのはバンドの名前で、去年恋におちた。
「ワンダーフォーゲル」って曲が素敵だったので、ライブにいった。
ライブにいったら好きになったその曲だけが特別なのが分かった。
そして、客をおいて、くるりの面子がうれしそうに演奏してた。
客は客で勝手に踊っていた。が、それもくるりには関係なく、
くるりはくるりのテンションで曲を演奏してた。彼等は自分の音楽が
好きなんだ。

家に帰ってから「ワンダーフォーゲル」のカップリングを聞いてみた。
「ノッチ5555」という曲が入ってた。聞いてみたら、いや!これが、
いい曲だった。読み方は「のっち・ファイブ・ゴーゴーゴー」だ。
意味は歌詞を読んでもよくわからない。まーなんとなく車に乗って
ゴーゴー!という曲だった。

意味がよく分からない。わからないが、今、自分に欠けてるものがあって、
そこにはピッタリはまるものがくるりの曲にはある。言葉の達者なものでは
死ぬニュアンスが、くるりの曲には息をしてる。すごいことだ!
それが「詩」の仕事だと思う。言葉でドーンといえてしまうことで
死んでしまうことを、詩ってやつが「言葉を使って、言葉で死ぬものを、
言葉の間のものによって予感させる」ことをする。

ジャズ。ジャズはホントにわからないジャンルだった。
わかんないものは「わかんない」というカテゴリのままで、ひとまず触る
ことにしてるので、ジャズを聞いてみたのは大学のころだ。
とりあえず、パット・メセニーは理解できるものだったので、パットの
周辺から入っていった。ライブだのCDだの聞いてみて、「あ、そうか」と
思った。うまくいえないニュアンスを埋めるから、ジャズはいいのだ。
気分、とか、雰囲気ってものが、こっちのペースのまま許してくれるのだ。

学生時分に悲しいことがあって、歌詞のある曲がことごとく聞けなくなってた
ころがある。勇気づけてほしくなんかなく、恋の歌詞なんぞ聞きたくも
ないのに、でも悲しくて、なにかに触れていたい時に、フュージョンとか
ジャズはなんといいポジションだったことか。
こっちの心に入ってくる音楽では「困る」って時がある。染み入ってこられては
イヤーなときに、ジャズってのは傍観しながら流れてくれてる音楽として、
とてもドライにそこにちょこんといてるくれるのだった。
同情も、遠慮もなく、「俺はやってるぜ。おまえは好きにしな」ってスタンスで
いてくれる音楽がこの上なく頼りに感じた。

で、じゃあ、ジャズってなによ?ってなると、「ジャズはジャズじゃん」である。
どーというでもなく、うまく言えたにしてもニュアンスは死ぬ。
つまり、くるりの詩と同じだ。映画「ジュリエットゲーム」で国生さゆりが
言っていた「言葉はいつも・想いに足りない」。いい言葉だなぁ。

ジャズも詩も大人として過ごすときに要るものだ。ハッキリさせきってしまう
ものでなく、グレイをグレイとしてそっとしておく、それは曖昧さからでなく、
やさしさから生まれたポリシーとして。

だからわたしはジャズと詩が好きだ。わからないままで、わからないなりに
好きでいることをそのまま「うん、いいよ」って言ってくれるような
感じが好きだ。つまり、それだけのことだ。うん。

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