NHKのラジオで子供が迷ってることについて相談してくる番組がある。
ちょうど昼間の番組だったりするから、普通に働いている人にはなかなか
聞くことができないプログラムだろうけれど、私が物心ついたころには
もうオンエアしたから、きっとみんな知ってると思う。
あの番組は聞いてて「へー」とか「ほー」とかケッコウ感心してしまう
ものなんだけれど、子供の意外に鋭い質問や、それに答える先生の感性に
よって「子供だまし」だったり、ファンシーな感じだったりとムラのある
リアクションたちにも「ホホホ」と小さく笑ってしまう。
こないだは「月はどーして三日月になったりするんですかぁー」とちっちゃな
子供が先生に電話してきた。先生は月をビーチボールに例えてごらんと
切り出して、「暗くした部屋の中で、おかあさんに懐中電灯を持ってもらうの。
で、あなたはビーチボールを持ったまま、いろんな方向からビーチボールを
照らしてもらってごらんなさい。きっといろんな形に見えるわよ」と
先生はそれは一生懸命に説明した。最後にオキマリのあの文句「わかったぁ?」
が飛び出してきて、子供は自分が分かったか、分からないのかも『わからない
ままに』、「わかりましたぁ〜」と電話を終えた。
私はこの子供の質問が、きっとおとなに伝わらなかったと感じました。
つまり、「ホントの月の見え方の理由」なんて知りたかったんじゃない!
と思うのです。そんなつもりで相談をしたんじゃないのに、とどこかで
だまされたような感覚を得るのではないかと思うのです。
私が推察したところの、この子の質問はこうではないかと思うのです。
(以下、推察)
”見えている月は日によって形も位置も違うけれど、あれはいろんな形の
月が世の中のどっかにあって、日によって用意された違う月がかわりこばんこに
にょっきりでてくるんだ。で、どうして日によって出てくる月はちがうんだろう。
誰か決めてるのかな。どこにしまってあるんだろうな”
で、きっと先生って人はいろいろ知ってるから、そこいらへんについて
きっと教えてくれるだろうと期待するわけです。
と、したらですねえ、子供のしたかった質問に対して、先生のしてきた
答えは「まったく的外れなところからの真実」であってですねえ、
ほんとに期待外れではないかと思うのです。
あれ、そんなつもりで電話したんじゃないのに、と肩すかしのような
気分で、子供の心はいっぱいになってしまうのではないかと思うのです。
子供はまんまるのものがきっと「三日月」の形になり、たまに消えて、
「ものの形が変わっている」と思っているんですから、それに対して、
そう、その「本来知りたかった、期待してたものの方への解答」が
ないのが、なんとなくスッポリ抜け落ちたような感じがしたままではないかと
思えてしまって仕方ないのです。丸いだなんて「嘘だ!」くらいの気概すら
感じます。
その、さ、いっそ、「三日月」の月って形がいっそ、あるって前提で、期待してる
ような答えをしてくれる番組ってどこかにないかな。
「ああ、三日月ね。ちょうど海の向こうがわに、おおきなポケットがついてるんだ。
大人になると見えるんだけど、君はまだ子供で背が小さいから、ポケットが
見えないかもしれないね。こんど海にいったら、展望台の上からうんと背伸びをして
海のうーんと向こうをみてごらん。ポケットのすそが見えるくらいになったら、
君はもう大人の仲間入りなんだよ。さて、問題の三日月なんだが・・・」と
自信たっぷりに嘘で塗り固めた大人、それもファンシーなものでパンパンな
先生っていないかな?きっとそんな先生に世の中を語ってもらえたら、その子は
ものすごく面白い人間になれると思う。
子供の頃、星空の絵を描くとあの5つのでっぱりのある「星」を連発するじゃ
ないですか。あんな形の星なんて、空に見たことがなくても、子供は社会の受け売りの
星を安心して描くじゃないですか。たくさんの子供があの「星」を知ってるのに、
あの形の星は宇宙にはない。あああ、だれでもいいから「ある」ってことにして
おお真面目に、それもそれっぽく本当にこたえてくれないかなぁ。
質問をする人は、質問をする前に、それとなく期待してる「もしかしたらな解答」が
あるんですよね。その「もしかしたら」の方を強化してくれることを、それとなく
期待してた、その期待感は、まっとうに科学的にこたえてくれる先生のクソ真面目な
解答によって壊滅状態に追い込まれるじゃないですか。それじゃあ困るんですよ。
面白いのは「星ってのはね、あの5つのとがったところからまず製作にはいるんだ。
あの5つのトンガリにはひとつひとつに意味があってね・・・」と「クワー!やっぱり
そうだったのかぁ!スゲー!先生スゲェー!やっぱ大人じゃん!なんでも知ってるじゃン!」
と息巻ける子供になれると思うんです。血潮がたぎるっていうんですか?
うれしい気持ちで世の中に入っていくっていうんですか、そんな気分の方がムクムクと
大きくなれるじゃないですか。イマジネーションがブイブイと巨大化するじゃないですか。
「子供をコウノトリが運んでくる」「クリスマスにはサンタが煙突から入ってくる」
「節分には鬼がやってくる」「雷が鳴ったらオヘソを隠さないと雷様に取られる」
そうしたことを子供に親が伝える以上、大人の方もきちんとそれを解説しきるだけの
イマジネーションをタフにしておくのがマナーだとおもうんですよ。
それも面白おかしく、「うお!やはりそうだったのか!父さんてスゲー!」
「キャー!思った通りだったのね、お母さんって物知り!」ってすっかりいい気分の方へ
突き進んでいける解答が欲しいのです。
ホントのことは大人になる時に学校で習うからいいの。
ホントのことは、ただ、ホントすぎてつまんないから学校で習うからいいの。
でも、ファンシーな期待に、ファンシーでもってこたえてくれる先生っていないのね。
そんな学校もないのね。
「今日はサルのお尻を真っ赤に塗る仕事を覚えてもらいます」とか
「明日の分の太陽は君に出してもらうことにするから、君は早起きして登校ね」とか
言われたら、鼻息あらくして発奮することまちがいない!
「やりますっ、俺、やりまッス!うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」と息巻きます。
NHKのラジオ番組、子供の電話相談を聞いていると、いつもそんなことを考えます。
先生の解答よりも、その質問してる子供の、ホントにしたかった方の質問について
思うのです。ああ、この子はそんなこと聞いてないのに。先生ってなんてニブいの、
もう、いやんなっちゃう、と憤慨しながらも「ハイ・・・・うん・・・・ハイ」と小声に
なって、畏縮しまくってる子供をラジオで聞いてて「ちがうっ!先生ッ、ちがうっ!
この子はそんなこと聞いてないっ!」って思うのです。
「やっぱりそうだったのかぁぁぁぁぁ!」と叫んで喜んでる子供いないもんね。
ああああ、喜ばしてやりたい・・・ファンシーな解答は正しくないかもしれないけれど、
世の中は正しいものだけで進んでるわけでもないんだから、思い切って
グーンとファンシーなものをタップリと詰め込んでくれるところが欲しいなぁ。
大人の側はそれをしなくちゃいけないと思うのです。ハイ。
追伸:ひとりくらいいてもよさそうなのに、ひとりもそんな大人がいないってどーゆーこと?って思うの。