尊敬する人

以前、映画を撮った時にその役者の子と話の流れで「誰を
尊敬してるんですか?」ってことになった。
多分、話の流れでいけば、作家やクリエータのことを引き合いに
出すのが自然だったと思う。でも私は「両親」とこたえた。

手前ミソどーもすみませんが、私は父と母が本当にすごい人だと思う。
父は「男」であってもいいし、「夫」であってもいいのに、まず「父」である。
同じく、母は「女」であっても「妻」であってもいいのに、まず「母」である。
そうあってくれるから、うちの兄弟はみんなずいぶんと「普通の子」でいられた。
やや過保護な両親でもある。子供のことを本当に信じてて、愛してて、すごい。

父は真面目でいい人だ。特に子供をかまうときの父の自然さは、まるまる
私達兄弟ともに同じ血が流れてて、子供ってものをあまり疎ましく感じる
ことはない。外で遊びもしないし、酒におぼれることもなく、温和。
私に家族が出来たとしても父ほどになれるか分からないが、父をめざして
いける父だとは言える。

母は心配症だ。言葉の丁寧な面は母から受け継いでいると思う。
母はその姉妹ととても仲がいい。花が好きで歌が好きで、いつも家にいると
「おかえり」といってくれる。顔つきは兄弟みな母の流れである。
(と、いいつつ、亡くなった父方の祖父の幼少の写真は私にそっくりだった)
(いや、わたしがソックリだった、というのが正しい)

と、こんなふうに書いてて「え?だからなんなん?ながや」って人もいるかと
思う。でも、こんなに父と母が普通の父と母でいてくれることこそ、今、私が
なにかに挑んでいけるための土台になっている。父と母が「普通に」いてくれる
ことで、私はいつでも戻るための家を見つけていられるし、自分の足場がどんな
ものなのかを、いつも父と母に会うと理解できる。

そして父と母が今、そうした自然な父、母でいてくれることってすごいこと
だと思う。もっといろんな刺激や挑戦ができた人生なのに、父は父、母は母で
ある時間が一番ながかったと思う。子供が親の犠牲になったことのない家族。
親はいつも我慢をして、子供の無理を聞き、最後には応援してくれている。

参る。本当に参る。すごい。なんでもしていい人生で、子供にここまで「いいよ」
って姿勢でいることが私にできるだろうか。父母がするように、私は人に接する
ことができるだろうか。
私はいろんな友だちを家に連れてくるが、けったいな人から普通の人から、
たいてい父と母をみかけることになる。で、やっぱり、人に見て欲しい父と母
である。特徴と言える特徴はない。でもそれがすごい。そうはいかないよ?普通。

そう、普通。
普通ってことは本当に難しい。
普通ってことに息苦しくなったり、普通ってことに焦ったり、人間ってどこか
普通ってものがたまらなくなることがある。
でも、それがどこかにあってくれないと、人間は挑戦も冒険も恐くてできない。
自分、がいつもその「普通」に照らし合わせて、やっと立ってる位置と意味を
見い出す。

社会に過ごして、普通ってものがいかに人為的に、努力した人の上に成り立ってる
ものかをヒシヒシと感じる。意外にぜい弱な存在なのだ。つまり壊れやすいのだ。
あっというまになくなるものなのだ。それをいつも持ってる人がいる。身近で
もっとも豊かにそれを持っていてくれるのが家族だ。
いろんな事情から壊れてしまう家族ってものもある。そしてそれは少ないって
ことでもない。家族ってものを維持するのは尋常でない心持ちが要る。
それは暢気に維持できるものではない。

仮に父か母がやさぐれてたり、不安定な感じだとしたら、私は今のような生活には
指向しなかったと思う。いや、できなかったと思う。もっと早く、もっと急いで
しっかりしなくちゃとやにむになると思う。

そう、つまり、今の私が私のままでいられるのは父と母のおかげだ。
間違いない。父と母がそこに、今、そうしていてくれることが、私が頑張るための
理由にできる。いや、大変だと思う。かなりつらい息子だと思う。困った息子
だと思う。折れない息子だと思う。心配がやたらに要る息子だと思う。
私は父と母がとても好きである。尊敬しているのである。とても同じようには
できないかもしれないけれど、ああいう大人でありたいと思う。切に願う。

冒頭の役者さんも「私もそうです」って話になり、その子はいかに母の前では
いいたい放題にしていられるかをうれしそうに話していた。「けっきょく
家族がしっかりしていてくれるからできることなんですよね」ってことで
おちついた会話だった。なにかをする人間は「家族と自分」のスタンスが
どんなものかってところを起点にしてるのかもなぁ、と感じた夜でした。

 

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