感情の量

ときどき、自分のやってることはナンダローって思うことがある。
いや、迷ってるとかじゃなくてね、その、マンガを書く!って
いっておきながら、鴻上さんのワークショップに出てしまって、
柔軟やエチュードやいろんなメソッドに挑戦しちゃって挙げ句、
「あれ、俺、なんでこんなこと・・・」ってやってる最中に
ハタと気付くのだ。それは芸大に「アニメつくりにいく!」と
いって、なぜかカメラマンをやってた時にもハタと感じた。
「あれ、俺、アニメは?」って。
映像学科に入ったのに、いつのまにかお芝居やってて、
赤いちょうちんブルマーにマントをつけて、まゆげをぶっとく
書かれた挙げ句に舞台にあがった時にも「あれ?俺?あれぇ?」
ってクエスチョンマークの嵐だった。「笑われてる!」と。

遠回りのようでいて、全部同じ筋道の上に、私の中ではあるよう
なんだけれど、やっぱり自分でもうまく言えないってことの方が
おおいもんですな。

ところで、末の弟が「声優になる」と高校生になってから決心した。
幼少の頃は「大人になったら大阪行ってまんが書いてプロ野球と
サッカー選手になる!」と豪語してたので、それからくらべると
ひとつに絞り込んだだけ立派になったなーと思ってたら、親は大いに
心配していて「長男がこれなのに、いいのかなぁ」と嘆いている。

ちなみにまん中の弟はしっかりサラリーマン。ゆえに、三人兄弟の
うち、上と下が不可解な世界に飛び込んでいるってんだから、親には
たまらない状態かもしれない。

ともあれ、末の弟は高校にあがってから、そうした「声優めざす仲間」
との交流を着々と続け、部屋では発声練習もしてるから、本気とは
思う。長男も次男も、末の弟の「技量」なんてものはとんとわからず、
それでも「やってみんとわからんだらぁ。うまくいくかもしれんでねえ」
と次男坊がベタの三河弁でそれとなく「やってみろ」と言っているので
なんとなく、末の弟はそうした方面の専門学校に向かうようである。

ところで、そんな弟の「演技力」がどんなものなのかが全く私には
わからない。でも弟の弱点は分かってる。「感情の量」が足りないのだ。
声優になるにしても、役者に流れるにしても、弟はその中に
「あふれるほどの感情表現」が見えてこないのだ。

かつて鴻上さんがどっかでいってたけれど、「声の使い分けられる量、
数の多さは感情の量・数である」的な感じのことを覚えてる。
つまり、声優にせよ、役者にせよ、そうした仕事に求められるのは
使い分けられる感情の量を、ストックを、どれだけ多彩に、そして
自在に、状況において発揮させ、チャーミングに感じさせるか?という
職人芸、って訳なのよ。

一般的な人は別にコントロールする必要はない。思ったままに発して、
思ったままに静かにしていられる。でも声優だの役者だのになるからには
それが「多彩」でなくちゃならんのよ。つまり、弟は自分に今、もっとも
足りない部分を使う仕事を指向しなくちゃナランってことであって、
んでもまぁ、どう進んでしまうかワカンないので、とりあえず、
「お前、本を読め。映画を見ろ、芝居を見ろ。とにかく、感情の量を
もっとふやせ」とアドバイスした。

このアドバイスはかつて一度やってる。それも母校の中学創立15周年って
ときに、かつての生徒会長って名義で母校が呼んでくれたのだ。
そのとき、末の弟は中学三年生。その時にわたしはダランダランの長髪に、
パッと見にあやしい学生服まがいのレノマの上着で、キャンドルをもって
囲んでいる中学生の環のドまん中に、ペタペタとスリッパで出てゆき、
あんまり「期待しないでねー」的な先輩像でノコノコと出た。

で、話したことは「君たちが今住んでいて、生活している町は大変小さく、
ここで起こってることや、感じたことは、ほんの小さな町の中のことだ。
でも君たちの町の外にはうんとでかいものがある。だから、君たちは
うんとでかいものに備えよ。外になにがありそうなのか、もっともっと
知る術をもて」的なことをいった。

お、なんか立派そうだぞ?と誤解する向きがあるといけませんので注釈を
つけますが、箇条書きで10行程度のことをダランダランとしゃべって
いたのであります。くり返し「もっと外をみろ。ここは狭くて小さな
町だ!」とくり返したのだから、学校としても困ってたかもしれない。
だって、ずっとこの町だけで過ごす子もいるんだし、そんな「外・万歳!」
っていわれても、中学生にどーしろってゆーのよ・・・って今にして
思わないでもない。

それでも、どこへでかけてゆくにしても、「どう感じることができるか?」
「どんだけの量を感じ、受け入れることができるか?」の心構えが
あればこそ、人は向かっていけるし、期待をするものなんだもの。

私は中学生にエラソーに語ってるのは恥ずかしかったけれど、弟にも
そうした言葉をかけてたつもりだ。「外をみろ、そこから見えないものを
とらえる準備と想像力をつけてね」って。

今、たってる場所から見えない水平の向こうにも、生活がある。
そこは、今、たってるところとは違う生活だ。
でも、君がどこにいても、君の魅力を発揮できれば、君はどこでも
楽しくやっていける。本当に大切なのはどこにいるかではなく、
どこでも君が発揮できること、なのだ。
弟に、それがいいたかった。

そうまで伏線はっておきながら、弟がどうなるか、私には楽しみである。
才能のウムははっきりしないし、私にはわからない。それでもなんだか
ウレシソーにしてる人間を見ているのは楽しいのだ。そして兄馬鹿(?)
なもんだから、シアターテレビジョンなどで録画した芝居などを見せてる。
「大人計画」やら「ナイロン100℃」やら「キャラメルボックス」
経由で、いったいどんな感情が彼にこもるのか、かなり恐くはある
けれど、アニメばっかりみてたって声優にはなれないんだし、まぁともかく
「感情を増やす」ってことは心掛けてるみたいなので、応援するのだ。

言葉の量、即ち「語彙」(ボキャブラリー)だけでは「知識」どまりだし、
七色の声、ばかり魅力的でも醸(かも)す面白みに欠けるし、
まぁまずは「絶妙の間合い」なるものを、「体得」して、いっぺんくらいは
俺に見せてくれよ、って期待を込めて、弟にばんばんいろんなものを
放り込んでいる。「そこが上手と名人の違いってやつよ」的なことを
言えればいいのだが、いかんせんアタクシ自身がふがいない身ゆえに、
時間のかかるチャレンジが続くことだろう。それでいいと思う。

人間誰もが世界唯一さ。ゆうなれば世界一、よ。唯一無二。ムニ?
究極超人あ〜るもいってたように「誰もわたしが今、存在していることを
否定できない(だっけ?)」なる、なんともしまりも自信もない、なけなしの
ないないづくしの方がさ、力みがなくて、長く続くんだよ。

頑張ってできることは、長く続かない。
頑張らないと出来ないことは、もしかしたら害ですらあるかも知れない。
「頑張ることに慣れること」で、ある意味で自分を軽視してる部分がある。
「俺は今、がんばってるのに」とか思うようじゃ、まだどこにも達してないのだ。
頑張れるのは大事なことだけど、頑張るだけじゃ足りないのだよ。
ゴールの霞んだガンバリは、おおむね間違った方向にダッシュしてるに等しい。
だから、ちゃんと見ろ。ちゃんと進むために、ちゃんと知ろう。聞こう。
ちゃんと、立て。
凛と、立て。
両足にに力を込めて、スックと立った記憶が君にあるか?君の、地面を。

なにを?
どこで?

弟は自分の持つ「味」の発見が最優先事項なのだ。
天賦の魅力のなんたるかを模索する旅なのじゃ。
そこに気付けば、愉快なことができるにちがいない。気づけ、早く。
そして、みせびらかして走れ。愉快に。軽快に。そのために、今は
感情を、たっぷり、あっちこっちで拾ってきて欲しい。たっぷりと、ね。
それはまるまる、君がだれかに感じさせるものになるのだぞ・・・たぶん。

うまいやつはうまさを売りこめ。下手な奴は下手なものを売りこめ。
必ず手はある。絶対にある。君が君のまんまであることにOKを
叫んでいれば、周りは折れる。きちんと折れてくれる。

だからマナーとして「ただ自分が知ってるだけのもの」を人にぶつけちゃ
いけない。それをすると人はきちんと軽蔑してくれる。
借り物を、自分のもののような顔で人にわたすんだもの、そりゃあ怒るさ。

「もち味」をトロ〜リと出す器量こそ、みんなが待っているものなのだ。
あなただけの持ち味。抜群の持ち味。キレのある持ち味。イタリア人みたいな
おおらかさで発揮する持ち味を御所望します。たっぷりと。ええ、たっぷりと。

 

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