がんばってなんとかしてるもの

がんばって、なにか達成したことのある人は、がんばったから
どこか、なにかにたどり着いたと感じているかもしれない。
うん、がんばるから、日頃出さない力まで動員するから
がんばった時はどこか、なにか、にたどり着ける。

で、「がんばればなんとかなる」と思う。で、次回もガンバロー
とか思ってしまう。でもそれはガンバラなければできないことになる。
ガンバってしまうから、疲労も早く、疲れはたまり、思考はニブく
なってくる。そこいら辺はあまり勘定にいれずに、むやみに
がんばる回数ばかりふやして、「なんとかしちゃう」ことばかり
増える
。随分と疲れがたまるまで「なんとかしちゃえる人だもの」と
思い込むがために、ひたすら疲れていく。

力を込めていなくてはゆるんでしまうもの、が心の中にはある。
自然なものだと思い込みたがるんだけれど、自然なものではない。
ガンバル、というのは不自然なものなのだ。ドーピングのような
結果でもある。日頃の出し惜しみを発揮する、といえば聞こえは
いいけれど、継続してなにかをするときに、いつもいつもガンバル
ものの上にあるものは、どうもなんだか疲れるのである。自分の
ことでも、他人のものでも。

魅力的なもの、に触れるときには「うわぁ!」というあこがれのような
気持ちと、「ほっ」という抜けたような安堵感がないだろうか?
真の「天才」を目の前にしたことがある?で、その人に「努力」とか
「ガンバってる」って感じる?感じにくいはずだ。彼等からはむしろ
自然体のまま、を感じないか?無駄な力を抜いた印象を受けないか?
「天才」を有する人はそこに至る行程に「苦労」や「努力」の回数は
少なく、直感やセンスでそこを見抜いて達する人達なのだ。

そうしたものを積み重ねてある「高み」に達する人というのは
「天才」ではなく、どこまで努力しても「秀才」の域の人だ。
「秀才」の人にはたんまりと「ガンバル」がつまっている。
ガンバることに、あまり「嫌ぁ〜」とも「またぁ?」と抵抗すら
あまり感じてない様子だ。がんばれば、なんとかできる、と思って
いるからだ。まぁ、それゆえに、いつもどこかで「がんばれば・・」と
思っているフシがある。そして他人にもあんまり考えなしに
「がんばれよ」って気さくに「がんばれ」を輸出してくる。

「がんばらせるなよ〜」と、ワタシは思う。こっちはもう、すでに
伸びきるところまでがんばっているかも知れないじゃん。そこんトコ
勘定にいれもしないで「がんばれよ」ってヘーゼンというのさ?
この無配慮は非難に値しないっていうの?「もっとガンバレ」って
あんまり考えなしにいってしまうのは、暴力に似ている。

「ガンバれないとこにいる人」に秀才肌の人は、もう、言葉を
持たない。ボキャブラリーが底をついているのだ。
ガンバれない人、はたしかに存在する。努力ってものがものの見事に
すべりまくる人ってのはいるのである。本人はがんばれるものなら
ガンバりたいんだー、って思っているのに、どうあがいたって
ダメなんスよーってことがあることすら、秀才肌のガンバリ上手さん
には分からない。想像力の幅が極端に狭い。

ガンバリたいのに、ガンバレない苦痛。苦痛なんだよ。本人には
ツライのだ。たっぷりつらいのだ。ガンバレなんていうなよ!
ガンバレって言葉なんかで放り投げてくるなよ!!って痛烈に
怒りをもって答えるのだ。がんばれねーからツライんじゃん。
じゃあ、「がんばれない人」はどうしたら「ガンバれる人」に
太刀打ちできるっていうのだろうか?あらかじめ、あんまり
考えなしに「がんばる」ことを引き受けられたってだけで、
そんな器用さだけでがんばれるヤツはエレエ!っていうのか!?
ジョーダンじゃない。がんばれるっていうのは器用さによく似てる。
敢えて言おう!「そんな勝負にのるな!」だ。あこがれてなんて
やるな!「がんばれるやつはあっちで勝手にがんばってろ!」と
ののしってれ。

ガンバらないで、なにかができる方法とは、自分のテリトリーで
発想して、自分のテリトリーで勝負を挑む手段を見つけることだろう。
簡単にいうと「得意なことをみつける」のが手っ取り早いのだ。
または「得意なんだろうと錯覚できること」に突進することだ。

私たちの大多数の人間で「困って」いたり「焦って」いたりする
人は、おおむね「他人の土俵」で戦うことを善かれ悪しかれ
自分に許している人達なのだ。他人の土俵でノタクタしてるから、
のっけから緊張し、疲れ、失敗できないよな、とか自分で
決めちゃうのだ。うまくやろう、って誰も要求していないところから
キチンとしはじめる。それは「他人の土俵」に乗りにいっている
からだ。

やめちまえ。襟元正してシャッキリせなアカンところが不得意なら
自分が錯覚や勘違いでもいいから、ゆる〜りとスタートできる
スタートラインを見つけることを大事にしたらいい。

自分の得手不得手も納得しないうちに「がんばろう」とするのは
本当につらいことなのだ。うまくいかなくてもあたりまえなのだ。
「ワカンネーうちはがんばるな!」としかれる人もいないよな。
「むやみにガンバるな!」とも思うのだ。
「なんだってキミはがんばっているんだね!バカモノ!」って
誰かしかってくれたら「ハッ」とできたかもしれないのに。

そして長く、楽しく自分が挑んでいきたいものがやんわりとでも
見つけられるようになれば、それはもう、きっと「がんばって」
いることも忘れているようになる。他人が見ても苦しくない
「ガンバリ」がそこにするすると流れているはずだ。
それは自然体である。

意識して「がんばってる」のは、時として「自分を卑下してる」
ことすらある。「自分の魅力」が他人にしか見えないように、
「がんばって見せているもの」は作り物の見栄えに手間暇かけて
いる人なんですよ〜、ワタシ・・・なんてなアピールにしか
ならない人がゴマンといる。そういう人を「直感」でインスピレーション
できる人の目には「つまらん」ものにしか映らない。
デコレーションが派手な人間はつまらないし、疲れる。
得るものが少ないし、傷つくし、悲しくなるし、無為に感じる。

自分の魅力がわからないからどーだっていうのさ?
わかんなくてもどっかにあるのさ、コンチキショーって顔つきで
フンフン鼻唄うたいながらノーノーとしていれば、もうそれで
チャーミングってもんなのさ。魅力のない人なんていない。
でもそれを知っておく必要は必ずしも、のものでもない。
知らなくても大丈夫。どっかにあるんだもの、ってそこはさておき、
とっとと自分の土俵にかけあがるんだ。君のもっとも得意とする
土俵へと。さんぜんと輝くことのできる、君なりの特製の土俵で
君のもっとも得意技とするものを華麗に、ちょっとくさいくらいに
鮮烈にアピールするのだ。10回でも100回でもしたらいい。
それが、あなたを、一番、ググンと伸ばし、いい気分にさせるものだ。

がんばってなんとかなんてすんな。そんなふうに良く分からないもので
自分をいい加減にすんな。がんばらないでもできることを
グイグイやれ。それでいい。それが一番いい。
がんばれる人は、そうね、がんばれ。がんばりそのものは売りものに
ならないかもしれないけれど、君はそれに意義を唱えることすら
しなかった怠慢をいつの日か問われるかもしれないがね。そして
「直感」へ「常においつけないレース」に挑んでいることも忘れずにね。
それが「がんばり」の背負うペナルティなのだ。

このエッセイは「がんばれない」人を擁護する視線からのものですので、
がんばれる人には不愉快でしょうがスマンです。ほな。

 

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