劇は劇だろう

ろくろく映画を見ないまま、大阪芸大なんてところに入ってみて
はじめて気付いたことが山のようにあった。まず、アニメがサブカルチャとか
カテゴリーに分類されていたこと。サブカルチャってのは、まぁ
「文化」の次点、くらいの「お軽い文化まがいのもの」の扱い、だろうか。
当時、すでにアニメは大人も十分鑑賞に耐える作品を作っていたし、
わたしの中では一大産業だったので、そのミョーなズレがのっけに
不思議だなぁと思った。映画が「文化」になれて、じゃあなんでアニメは
アカンのさー!ってのは、同じフィルム仲間としてなんだか理解不能
だった。まぁ、思えば日本の映画賞たちも、アニメってのはどーも
「映画扱いにしたくない」フシがあって、どんなに不作な邦画状況で
あっても、アニメには「映画」としての受賞がなされないという奇怪な
ことがヘーゼンとまかり通っていたけれど、このたびの宮崎監督が
ベルリンにて受賞したことが少しは状況の打開につながればいいなぁ、とは
思う訳です。いや、ほんとは「もう邦画なんて映画じゃねーや」くらいに
アニメの方から願い下げでいいのでしょうな。海外で評価される日本の
作品はもうすでにアニメかゲームになってきてるしね。

さて、もうひとつ「なんじゃそりゃ?」って思ったのが「芝居」のこと
についてであります。日本で「芝居」とか「劇」」ってのは日本古来の
歌舞伎だとか能狂言
だとか、あっちのことをさすのであって、たとえば
シェークスピアなどの海外の戯曲で公演することを「新しい芝居」って
ことで「新劇」って呼称するんですよ、などとあきれた授業を聞いた
時には、アゴがはずれそうでした。なーんじゃそれ、っておもいました。

昨今「芝居」っていって、歌舞伎のことかぁ、と思う人なんている?
いねーよ。いませんよ。いませんったら。
「芝居見にいこうか」といって「おう!歌舞伎な!」と返す輩はいませんよ。
そのふるーい着想と、「新劇」よばわりしちゃうしみったれさにヘキエキと
した人が「小劇場」という時代をつかまえるナチュラルなサイズと発想を
のばす、若者のいうところの「芝居」を広げてくれました。
歌舞伎も新劇もほっとんどみないでしょう?みませんよ。滅多にやってないし、
近くじゃやってないんだもの。若者で、知人で「歌舞伎よぉ!」
「マクベスよぉ!」といきまいて、見にいったり、そっちの役者を
目指してる人は未だ出会ってないですし。

いえ、決して古典を卑下するつもりも資格もござーませんし、むしろ
尊敬しておりまするが、「芝居」って言葉の響きからくる解釈は
すでに文化人のそれとはひどくズレているのがイヤんなっちゃったんです。

アニメにしても、芝居(小劇場)にしても、援助も後援も日本政府では極めて
貧相で、評価がうまくできていない。そう、「どう評価していいかよく
わかってない」のがよく分かってくる。韓国では国立大学に漫画学科が
あるし、中国では国営でアニメーション製作会社があるってのに。
海外のほうが先に漫画アニメを評価し、その人材育成を計っているときに
日本政府はボーッとしている。でも日本に限らず、政府の介入/示唆のある
文化ってんはあんまりうまくいかないものだから、日本のアニメ・ゲーム・
漫画が面白いのはもしかしたら「わざと」放置してるのカモ、とも
勘繰るのです。たしかに日本の漫画もアニメもタブーがないものな。
海外では「捕まる」ような描写もヘーゼンだものね。パンチ力はある。

評価できない、ということは恥ずかしいことだ。目の前にとんでもなく
文化レベルの高く、濃厚なものがあるのを「よくわからない」でいるのは
なんというか、台なしだなあ、と思うのです。
「劇」の話しにしてもそうです。「劇」は「劇」ですよ。小劇場の芝居は
自然と「劇」」って呼ばれてるものだと思いますよ。なんでそれっぱかしの
ことができない連中がいるんでしょう。

目の前で発展し、日々新しい表現に立ち向かっているメディアを、もっと
グンと手前に引っぱってきて、キチンと広げてくれる方法ってないのかな。
貧相な、あの水で薄めたような、独り言のようなJーPOPとか自称
してる人達の騒音よりも、時間を割くに値したものが山のようにあるときに、
トップセールスばかりを模索するのっぺらぼうな業界の意向ばかり
しか知らない人が「しまった!」って思えるものがたくさんあるのに。

売れるものが大事にされるのは良く理解できるけれど、ホントは「注目
すべきもの」が発露してきてほしいのだ。そのイントロとしてね、
ぼくら一般の人の感じる「芝居」をこそ、ただ普通に「劇」と呼ばせて
欲しいのです。呼んでて欲しいのです。

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