作成日: 10/04/29
修正日: 10/04/29
知ってるものだけじゃ、ちっちゃいぜー
知らないものを受け取るにもスタミナがいるよな
車が売れないそうです。若者が乗らないし買わないそうです。ほうほう、そうなんですか。
それだけじゃなく、地味婚とよばれる現象や、就職氷河期などと言われる最中を生きる若者は
ちょい昔のバブリーな連中の味わえた高揚感や浮かれ気分を、情報として聞き及ぶばかりで
不憫なほど堅実に過ごす方法ばかりを肯定している。
飲みの席でも「まずビール」は既に通用せず、各々が飲みたいカクテルやチューハイから
はじまる飲み会などというのは、スタートからして従来の飲み会の持つある種の統一感を
持てないなにか別物になってる。
未だに「買いましょう」文化で成り立つ社会は、「テレビをデジタルにしなさい。自前で」とか
政治家がお金を配って「何か買いなサーイ」的政策を打つが、それにしたって「買って景気を
底支えしなくっちゃ」って発想になれる人がいたとしても、それはもう若者ではない。
買わないで済むものを、買って来れた世代とは違う人たちが中心になろうとしてるのに、
売らなくちゃ、買わなくちゃ、とかなり大ざっぱな経済観念でうろたえてられるのは
よほどなにも考えない輩でしかないと思う。「買わないで済む」ことを念頭に置いた世代に
見合った社会に変化するんでしょう?違うの?
前々から気になってたんだけど、就職活動をする世代が、その時々の世相や環境に鑑みて
「これからは理系だと思うんです」とか「介護って必ずなくならないものじゃないですか」などの
発言をテレビなどで聞き知るたびに、「今、分かってるものだけじゃん」とかなり浅はかな
目盛りで就職決めちゃうんですね、と感じたのです。
本屋さんに行っても、雑誌コーナーに立ち寄る回数が減ってしまった。自分が心変わりしたというよりも
雑誌がおそろしく面白くなくなってしまった。自分の実生活に役立つ内容が、かつての雑誌には
あったが、今やネット経由でそうした情報を「取りにかかる」能動の時代でもある。
ネットの上でこのごろやたら漫画家と編集者、ないし出版社との確執が赤裸裸にでるようになってきた。
そこで感じるのは「編集者」という人の悪役ぶりで、漫画家もいろいろ言われるし言えないことも
あったんだろうけれど、ネットの時代なのでスイスイ出てしまえるようにもなった。
編集者全員が悪いということはないけれど、漫画家の置かれた弱そうなポジションは
どの方の告白であっても、やはり胸が痛む。漫画家は,基本的に商業誌で「好きな漫画」を
書いてるだけではないんだ、という正直さまで出る。手塚先生の時代には「作家」が強力な
作品世界をもって、読者を虜にする、というシンプルな構造だったと思う。いつのまに
出版社ビルの維持のために、漫画家が働く役割みたいに見えるようになっちゃんでしょうね。
人ってさ,目の前に見えてるもの、知って、分かってるものだけに囲まれて生きてるから、その最中で
生き抜き、集め、選別して、自分に添う最良の選択をしているんだけど、実は目の前にないものから
受ける影響の最中でもあるんだよね。
今、「自分が知ってるもの」って枠の外には、「自分が預かり知らないものだらけ」がワンサカ囲んで
厚くあることをうすぼんやり知ってる。
でも、今の自分ではそれを知ったり予感したりする術がないので、「ない」ことに仮にしておき、
「今,分かってる」ものだけの中からできる決断を繰り返す。
なんという危なかしさだろう。若い人には世の中の仕組みなんててんで分かんないのに、人生の
ベテラン連中に社会に出たとたんに餌食になってしまう。少々の痛い目を経過して、若者は自分が
なにを養うべきかを勉強する・・・ってな筋書きができたのも,今では少々古い観念で、
イマドキはネットだのITだのの、若者優位にスタートできる社会インフラも整いつつあるから、
「古くからの人生のベテラン」はそれそこまでの人生経験で経て体得した「生き抜き方」を
根こそぎ、骨抜きにされかねない不利さを持てるようにもなってきた。いいことなんだと思う。
若かろうと、お年を召そうと、生きることの困難さは、どこまでも避けられぬ道筋のようだ。
だけどそれだけに、経験によった生き方も、IT産業に象徴されるカシコソーな生き方も、どこか
「必死にかき集めたけれど,一斉に浅はかな知恵の集合体でした」的しらけを,私は覚える。
それらの底には「自分は分かってる」ものに立脚した生き方、という意味で、姿、形、年齢が異なれど、
やってることの本質は同じくらい爺臭い。
つまり、「まわりをよく見てやってます」という、「気がつけるもの」をスタートラインにしてる。
ほらね
自分の見えてるものだけじゃん。
認識できるものだけじゃん。
分かってるものだけじゃん。
自分の分かってないところやものまで予感してやっちゃえ!的発想で動く人ってのは芸術家くらい
なんだろうか。もっとこう、「オモシロソー」ではじめちゃ駄目なんだろうか。
自分が今知ってるだけの将来像になんか絶対なりゃしないよ、って人の方が圧倒的に多いのは
結局のところ「自分が認知できないもの」ってやつに影響され、感化され、ぐわんぐわんと
ふりまわされ、「なるようになりました」ってのが多数派でしょう?
その最中で「少しでもコントロールできるものの数を増やす」っていうアプローチならまだ分かる。
でも学校に上がるときからキャリア官僚だとか豊かな老後だとか、もらえないかも年金だとか、
ふ~らふらしたものにぎゃんぎゃん振り回されっぱなしでどーれもこれも当てが外れてるっていう
この現実に説明のつかないことの方が,断然「本当」なんじゃないの?
生きるときにさ、それを水際立った、旬なものの連続のように生きて行ける方が素敵だと思う。
そういうのって、雑に言うと「楽観的に、ノンポリに、好きにやってたらいーじゃなーい」って
安直にもってくんじゃなくてさ,そーゆーおふざけの効いたエッセイのつもりはなくてさ、
大まじめに思うのはさ、
「今、ワカンネーものを予感しまくって、ゆるくしておく」
ことが肝心なんじゃないかな、ってこと。
えーっとね。
自分が生きる人生の結論を、その時々であっちか、こっちかと狙い定めて、方向を微調整して
生きてるつもりの皆さんと同じく生きるワタクシですが、もういっちょはみ出してみたい気持ちも
ワタクシありまして、
「自分になにか放り込んでくれたら、面白く返してみせますよ」的「未決定さ」がある人がいいんじゃ
ないでしょうか、という話。
つまり、他者や、幸運がさ、自分を見つけてくれたときに「お、こいつは」といって気にかかり
ひとつ試しになにか放り込んだところ、相手がが予期してたもの以外の、結構愉快な結論に
至ってくれたら、ふたつめ、三つ目も放り込んでみたくなるでしょう?
もうそれ自体が「自分の想定外」のものを放り込まれてるんだけどさ、実はこれが自分の枠を
越えて、他の大きななにかとつながれて、なおかつ自分自身を大きく広げて行く力だと思うんだ。
ネット世界も、テレビが大型化しても、「自分の好きなものを寄せ集めておく」ことの器用さばかりが
上手になったつもりの連中の絶対数が増えてるだけであって、豊かななにかに向かっていってる
手応えってないじゃん。ないでしょ?
楽しくも、大事なことは、自分が知ってないものを、どんだけ「放り込んでくださいな」って
すました顔つきで、口を大きく開けてるかだと思う。
知ってないこと、知らないこと、わかんないことを、どれだけ真摯に待ち続け、あこがれ、
食らいつくか、こそがなにより大事なんじゃないか、と思う。
それは「自分の思った通り」じゃないかもしれない。
でもでもさ、「自分の思った通り」が、それそこまで「自分が分かってるもの」だけでしか出来上がらない
モノカルチャーなものなんだよ。あなたが「黒」という色を持つ人であるなら、どんなに壮大で
どんなに複雑な「人生という作品」を練り上げても、「黒一色」なんだよ。
もっと多彩で、もっと具沢山な人生のつながりとか他者の培って来たものまで囲い込んだ流れを
受け継いだ「赤、青、黄色、緑・・・」と連綿と続く色とりどりの何かが、「黒しか知らなかった」自分に
「流れ込める」ようにしておくのなら、あなたいう「自分」は、自分一人では決して用意しきれない量の
たっぷりとした色味や深み、味わいのある「人生」を練り上げることができるでしょう。
もし、後者のそれを「自分の思った通り」と称するには、どう言ったらいいんだろう。
ほとんど他人の放り投げて来たもので構成され、でも自分を経由して成り立ち、生まれる人生を、
それを「自分の思った通り」といっても、他者には「なすがままじゃん」としか認知されないのでは
ないか。
私はうすぼんやりとこれが仏教の「縁」が生む豊かさなんじゃないのかしらん、と一人ゴチている。
なんせ博学ならぬ薄学なので、なにについても自信はない。それでも今の時代に汲々として
「自分は!自分は!」と叫ぶばっかりの生き方を強要され、それが故に他者と当然ぶつかるやり方を
助長し、「それでも幸せになりたい」とそもそもスタートラインから間違ってるやり口が、どこか
正統でありますみたいな風潮が「ダイッキライ」なのです。嫌なんです。薄気味悪いんです。
若者だって、まともに生きれば、そりゃひきこもるでしょう?喰えるもん。住めるもん。親といたら。
親も助けるもん。引きこもるでしょう。引きこもってたら「死んじゃっていました」が頻発するのが
世の常であるなら、引きこもってらんないもん。家族が元気で、水も電気もあるんだし、そうそう
死にやしないよ、と念頭になるからこそひきこもれる。もちろんそんな悠長な理由じゃないよって
人もいると思う。外国のスラムなんかでそれをしたら、誰にも知られずに死んでる。
引きこもりは「悪い」とかいいとか、そんなんじゃなくて、「それは、できる」以上に認識する
必要はないんじゃないかな。できる、から、やってる。
私もこの齢になって、人生がどう進むことが豊かっていえるんだろうって思うことがある。
ま、一言で言うと「わかんない」んだよ。わかんないよねえ?分かる人いる?はい,挙手!
とはいえ「自分が知ってるもの」だけで拘泥される生き方はずいぶんとしんなりとしたエンディングに
つながることは予感できる。だから「思った通り」なんかじゃなくていから「思ったよりでかく!」
「思ったより多彩に!」「ひとりじゃ絶対たどり着けない」ところに帰着できるやり口に
突っ走っていられたらいいだろうな、と思う。
今、自分がしてる予感は、今の自分が知ってるものだけで作り上げた妄想のゴール。
誰か自分以外の多くの人たちと、
「竜巻のようなスパイラルを描いた勢い」で、
「大海原全部くらいの水量を誇った豊かさ」をまといもって、
なにがなんだかわかんなくなっちゃった「自分の知らないものづくし」なことに囲まれた
人生ってものを目論んでも、それだって「私の目標」って呼んでいいでしょう?
だからガバガバにしておくの。そしてビビッドに楽しい返事のできる状態にしておくの。
夢見がちな馬鹿な話だと思う?
いいから、見てなよ。いいから。
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