作成日: 10/06/02
修正日: 10/06/02
チャンスとかリスクとかタフとか
横文字ばっかだな
一生に一度か二度の機会しか与えられないものがある。大方の人にチャンスが巡っていても、捕まえにかかれる時間は
限定的で、そのわずかな合間にガブリといった者にしかその恩恵の意味が分からない。そしてその稀な
チャンスというものは、無条件に差し出される善意のものには見えない形で提示されるから、
受け取る側の「心意気」とか「挑戦」の気持ちがないと、スイと流れさって、2度と眼前に流れてこない。
自分が「飛び込んで行けない」ことによって、実はほとんど多くのものを「手に入れ損じる」行動を選択してることを
人はあんまり「気づいてない」ことで自分への面目をたてている事の方が多い。男の方にそれは顕著で
女性はむしろガブリといって、振り返らない。そのどっちもいいとも悪いとも思わない。
リスク、というものを極端におびえる人がいる。リスクがあることには手を出さない人もいる。
リスクに背を向ける事もできるんだけど、向けまくってる人は,結局そのリスクの規模も質も見抜けない
ままだから、結局位置も分からなくなってきて、しまいにはリスクにまんまと飲み込まれてしまう。
リスクには目を向けていなくちゃいけないし、その規模も質も深さも見据えて応じて行くことがいいと思う。
知らんふりをした人はリスクをなかったことにしたのと同時に、リスク扱いしたものの向こうに拓けるものも
一緒に永遠に見失う。
駄目になったり、なくなっていくことが「悪いこと」だと認識する人がいる。そうとも限らないと私は思う。
ご飯やおかずもそうだけど、人が食べたら「消化」できないと体にならない。食べたものは、体に入って
その質を変えて、取り込めるようになってくれてこそ、食料の価値といえる。「そのまんま」なものは
形にしろ存在価値にしろ、たとえ存在しててもあまり意味がない。
変わっていくことは、あたりまえのこと。それを称して「駄目になった」であっても「変化した」であっても
同じ状態を指す言葉の差でしかない。変化そのものを捉えるべきであって、「駄目になっちゃった」という
主観が自分の今後の行動をしばりつけるだけであって、あんまりいいもんじゃない。むしろ「変化した」であれば
目の前の状態を掌握しやすいままで扱える。
人は自分に把握しにくいものをを他人が放り込んでくると、いったん罵ってくる傾向があることをこのごろ感じる。
分からない、と言いたくないのもある。それでも把握しやすかろうがしにくかろうが、目の前に出たものは
感情抜きで「それは、それ」と思うだけでいいと私は思うし、思いたい。わかんないものは、わかんないもの、に
分類すればいいのであって、罵ったり、虐げたり、避けたりはしないでいいのに、世に言う「普通の人」は
堅実さからも「そのままにしておく」をあまり快しとしていない。「害のありそうなものには手を打っておく」とでも
いわんばかりに、なにがしかの着色を試みてくる。目の前のものは、なるべくプレーンな状態でそのままを
把握していけばいいものを。自分の心の弱さから、自分が理解しやすい大きさにまで分け、切り、ああ、やっと
飲みのこめる大きさになったところで「いいもの」と認識しなおして体に取り込もうとするから、
本来の大きさや魅力、味わいはすっかり色あせてるし、全体像も分かんない。もとの状態こそが放てた魅力そのものに
直面できる人間は、少数。だからこそ、本物を見分けられる人は、そういう意味でタフでなくちゃ、もたないのだ。
タフでない人には,結局「チャンス」は理解できない回数が増えている。
私は幼少のときにお前は少々変なものを好んで首を突っ込みたがるところがあると嫌みっぽく言われたことがある。
そうかも。理由がある。面白い。返せば、「それじゃ駄目なの?」
変化で先行するものにいち早く乗っかりたい、とかいうのもちょっと違うと思うんだけど、面白いものは、ただ
面白がればいいじゃん、というのが「言い分」だ。この「ただ面白がる」を否定したり、罵ってくるのはなんだか
アンフェアじゃないの?そういう抵抗感は昔っから、ずっとある。正論で、一般論で相手を叩きのめした気持ちに
なってる連中に限って、なにも手に入れてない。
面白けりゃなんでもあり、といった刹那的なウハウハ万歳ってんじゃないよ。そりゃ馬鹿だ。嫌いじゃないけど。
つまりさ、「面白がる、を罵るなんてのは、それこそ愚かである」と思ってる。ほっとけよ、面白いんだから。
放っておけない、おかないのが嫌なんだよ。こちらこそ、そちらの「正論・常識」を毛嫌いしていても
「そんな常識、正論なんて、馬鹿じゃないの?」って罵りにかかってないでしょう?ちゃんと放ってるじゃない。
フェアにいこうよ、フェアに。
リスク、はリスク、じゃなくて、これこそ主観の生んだ妙な解釈であって、弊害そのものよ。
リスク、ってのは「変化の兆し」でしかない。その予兆の捉え方を、最初から偏見の色づけではじめると、
ひどい目に遭う。リスク、は代わり映えをはじめた最初なんだから、その背後にどーんと広がるものを
どこまで深く、大きく、予感して、推察して、洞察して、面白がって、広げて、触って、予感して、検討して、
「どう料理してやろうか」と虎視眈々とするくらいのスタンスで臨めば、自分に害をなすものではなく、
自分が乗りこなすものに位置してくるものだ。リスクに飲まれるのではなく、リスクを使う準備が自分の側に
あるかないか、こそが肝心なんでしょう?そこが語られる事がビジネス書だけってんじゃ、足りないよねえ。
実践もてんでされてない。そういう大人の数も少なすぎる。
リスク、とチャンス、にどんだけ差があるの?同じものでしょ。そういいなよ。
少々雑な暴論だけどね。いいじゃん、エッセイだし。
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