作成日: 10/06/14  
修正日: 10/06/14  

サッカーは見ない

野球も見ない


私はテレビでサッカーを見ない。野球も見ない。昔からそうだ。純粋に興味がそそられない。
見てる人を不快には思わないし、そうした話題の要る場所にはとことん馴染まない。いえ、馴染めない。
我ながら不思議なくらいに「わかんない」のでした。野菜と一緒で「うまい接し方が分かってない」ような
気もする。

テレビでもラジオでも番組編成がそれによってずれ込む事を平気な顔でやるテレビ局が憎くてしょうがない
って思う方だ。自分がそうなだけだ、としばらく思ってたけど、フイに母が「野球って長いから嫌」と
言ってるのを聞き、ほう、とうなづいたのでした。直感で「嫌」といったん決めたら頑として理由を知りにも
向かわずに、かたくなに「嫌」の一点張りになるのは、どうやら母の性格遺伝のようだ。もう気持ちを
うごかしたり、しのいだりできなくなるくらい、直感の最初にくる「いい」と「嫌」の裁断は絶対的に
基準点になり、今度の自分の動静にずいぶん影響させてきた。
そこで「なんで?」と誰かに聞かれようものなら、もうその時点から「意地っ張りモード」に突入して
「自分自身が理由なんて知りたくもない」という姿勢に終始する。会話にならない。意固地になるのだ。
で、面白いのは、おおむねその意固地っぷりの方の結論の方が、おおむね私を幸せな方向に導いて
くれる頻度が高いということだ。あながち的外れに嫌々いってるんでもないんだな、と我ながら思う。

オリンピックやワールドカップというと、中継が夜中になるなど、「睡眠不足が心配ですね」的表現を
テレビでアナウンサーなどが言ってると「ううん、全然平気ですよ」と心でつぶやいたりする。
「見ませんもん」「なんで見る事が前提なんですか」と聞いてみたくもなる。意固地なのか、これこそ
普通の感性だと思うんだけどな。返せば「なんでみんな見る事になってるの?」は深刻な心配でもある。
見てて当たり前、な会話を強いられると、げんなりしちゃうのですな。そんなの質問にすらしないで
済ませばいいのに、とかいうのが本音です。

その点、このごろのテレビ局のプロ野球に対するすげない態度は、むしろ私のような人には心地よい訳です。
定時のニュースの中盤から「本日のスポーツニュースダイジェスト」みたいなのがあると、チャンネル
変えてますもん。「なんでそんなの流すの?」「ニュースの枠はニュースで占めてよ」と、これはきっと
スポーツを、自分の中では民放のバラエティーに近しいカテゴリーで眺めてるなあと知る訳です。

つか、みんな本当にそれだけスポーツ見てるの?若者のゲームに関するトークと同じ次元だと思うんだけど
社交辞令として「共通の単語」として選手の名がやっぱり要るのかしら?「わかりません」の一手で
突き進んじゃうんだけどね。