作成日: 10/08/18
修正日: 20/01/29
「最初っからそういう人だったよ」
「ずーっと、ああいう人だったけど」
「最初っからそういう人だったよ」
「人を見る目がある」とかない、とか、社会に出ると誰と組んでいるかで,結果が全然違ってくることが増える。
誰とつきあうかは、ある程度「将来性」も込みでむきあうことになるが、いざ、自分が誰かを思った通りじゃない、と
気づいた時は、「なんで!?」とも思うし,態度の豹変などがあれば「どうして!?」とかおもっちゃうけど、
第3者に「あの人?前からああだったよ」の一言で片付いちゃう時がある。この切なさったらない。
自分にだけ見せてくれたはずのものが、虚像だったり、芝居だったりしても、それでもそれがうれしい時が
人にはある。自分の側でも、どこかその虚像なり、芝居なりにつきあう事もある。一切合切が「茶番」に化けて
自分にのしかかって来てからでないと、そうしたことへの清算が仕切れないという共犯関係でもある。
人は基本的に「自分の思い通りにならない」ということが、なかなか腑に落ちない。
理屈では分かってるはずのものが、根本のところで、あんまり上手に「あきらめきっていない」ことが普通。
だから「怒っちゃう」んだし、「恨んじゃう」わけですが、そもそも「自分のはなはだしい勘違い」を
とっくに、まっさきに「許してる」ことには触れない仕組みがある。
自分に見えてる「相手の性格」は、自分にとってはたしかに「自分の思った通り」にしか感じないけれど
これが他人に言わせると「そんなことも気づかなかったの?」くらいの手合いに語られて、はじめて
「なんか認識甘いのかなあ・・・」などと不安になってくる。結局自力でそうしたことには気づけないんじゃないか、などと
不安になってくる。
意図的に「見せない性格」が人にはある。誰もにある。見せたくないのに、見せてくれと強要される事もある。
聞かれなかったんだから、とダンマリで通しただけだ、って理屈も間違ってはいない。
だから「こんなはずじゃなかった」と言わなくちゃならない人に対して、それを言わせた人は「最初っからこうだけど」と
澄ましてしまう。準備ある人と、準備のなかった人がいるだけ。
もうひとつ。
人は変わる。
変わらない人もいるようでいて、元通りではない。似て非なる状態で「変わらないように見受ける」状態では
あるけれど、変わっている。
だから「昔はそうじゃなかった」というのは、当たり前なんだと思う。
変わることは、普通の事。
変わる事をとがめるんじゃなく、変わって当たり前。当たり前すぎて、とがめるに値しない。
その普通さに怒ったり泣いたりするのはよそう。「だったらなに?」と言われておしまい。
そう思うと「変わらない」人の変わらないように見えるような過ごし方、というのは工夫のいる生き方なんだろう。
「変わってないはずがない」ところが、パッと見には変わってないように見えるんだから、念がいってる。
表題にある「最初っからそういう人だったよ」「ずーっと、ああいう人だったけど」という言葉をかけられて
ハッとしたことのある人は、「自分がそう見立てたい気持ち」が「相手の本当の姿(そんなもの、ないけどね)」を
見通すのを邪魔してることを感じたはず。
でもね、いんですよ、そんなの。思った通りじゃなくていいんですよ、って思えば済む話なんです。
だからなんですか、って思えればいいんです。
そうすりゃ、怒っても仕方ないと思えるんです。
と、それができたとたんに、ツマーンなくなるんですけどね、その人。
そんな器用さ、GETしたって、さっぱりツマンないんですけどね。
人なんか見切ったって、見切れたって、全然楽しくなんかないですよ。
勘違いしながら右往左往してるくらいが、人としてのどっぷんどっぷんかぶる大波小波でホンローされてて
面白いですよ。
そりゃぁつらいですよ。思い通りにならないものに囲まれて生きるってのは大変なことですよ。
そういうものに、いちいちぶつかっては、つんのめっては、弱ったり,怒ったり、笑っちゃったりするのが
面白くなれないようでは、次に見るべきものにたどり着けないです。
「最初っからそういう人だったよ」と,言われても
「ずーっと、ああいう人だったけど」と、言われても
その場でがっかりしつくして、忘れればいい。次はうまくやるぞ、ってそこで仕切り直せばいい。
次はうまくやるぞ,って思ったところで、似たような失敗をしでかすもんだ、と含みもって
備えたりする事に腐心するよりも、身軽に過ごす事の方がはるかに大事なんだな。
そうした軽妙さ、は人として、きれいに見えると思う。私には。
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