作成日: 10/09/13  
修正日: 10/09/13  

この夏の変化

変わるものを凝視してると、変わらないものまで目立つね


末の弟に言われた。「珍しいな。兄は兄弟うちでも子供受けはいい方なのに」

弟の娘、つまり姪の「あおいちゃん」がなかなかなついてくれなくて、私の顔を見れば
泣き出したり逃げ出したりで、弟自身もなにかしら心配のようで、「触らんといつまでも
人見知りするで」とはいうものの、本人が嫌で泣いちゃう以上、なんのしようもない。
ところがこの夏から、突然「遊ぼ」といってかまってくれるようになった。
ふむ、子供って不思議なんだけれど,どこかこういう運びになる安心感が私の方にはあり、
人ってそうだよな、って思う。

いつだったか、昼に寝てて、ハッと気づいて起きると、他の部屋でお昼寝してたあおいちゃんが
足下で立ってた。こっちはぼんやりしてるんだけど、あおいちゃんは「悪いものに見つかった!」的
表情で、こっちをみてる。まだ1歳半くらいの頃で、怖さを表現するのに上着の裾を、ぎゅーって両手で
みるみる力がこもっていき、案の定顔が崩れだして、泣き始めた。
目覚めで姪が泣いてる風景が展開されて、あ、え?なんなん?へ?俺?と戸惑ったのも記憶に新しい。

でもそんなこと、あおいちゃんはもう忘れてるだろう。そんでいい。

この夏は「酷暑」連発で、9月に入って1/3が過ぎてるのに35度を平気で越える気温。
例年にないことなんだけれど、私は極端に太陽光線に弱くなってしまった。暑さ,ではない。
太陽光線に目眩を覚えるようになったのだ。この夏から。

それは自動車に乗ってるときに起こるんだけど、熱射のひどい酷暑日に、車に乗ってるだけで
「パニック」のようになり、吐き気、目眩、心拍の上昇、発汗・しびれを一斉に起こし、慌てて路肩に車を
寄せるが、静かにしてるだけでは収まらず、最寄りのコンビニなどで涼をとらないと、まさに
「倒れる」寸前まで胸が詰まりきる。
これが今年3度あった。今も部屋にいるんだけど、冷房効かせてても,その症状の予兆を感じて
日差しのある状況を極端に怖がってる感じがするのだ。理由が分からない。

「それは疲れてるんですよ」とも言われたが、これは疲れ、って次元なんだろうか。これまでそんなこと
なかったことを考えると、やはり「変化」を感じる。
一回その症状が出たときに、原因を突き止めてやろう、と「日差し」なのか、「暑さ」なのかと自分の体の
反応を試してあれこれしてみたら、どうやら「昼間の日差し」にくらくらしてることがわかった。
サングラスの裾からはみ出してくる光だけでも喉が詰まる。深刻なんだよね、車の移動が結構多いし。

車のシートと背中の間に、竹枕を入れる事で,腹部への圧迫感、熱のこもりを解消して、吐き気もなんとか
乗り越えることができるようになった。眼精疲労もなんだか感じる。なのに「暑い最中で、汗かいて動く」は
比較的できるのだった。ぽたぽた汗を落として動いてても、むしろ爽快ですらある。苦しくもならない。
車で、「体全体にまんべんなく熱感が迫ってくる感じ」がパニックを起こすんだろうか。実際渋滞の最中で
運転が危なくなる時もあったから、気をつけなくちゃ。

一時も、同じものなんてない、なんて教えが仏教にあるけれど、こういうのもそうなんだろうな。
体も心も、日々変化する。いいとか悪いとか、自分側の小理屈をつけるのは、造作もない事だけれど
自分がどう思い込みたい,以上に、実際起こる事は起こるんだから、それをそのまま腑に落とすことに
慣れる訓練が、年を重ねると大事になってくる。叱ってくれたり、指摘してくる人が年齢を重ねると
どんどん減って来て、ついぞ自分の言葉がまかり通る回数が増えて来てしまったりする。
それは「言い分が通る」というよりも、「思い通りって、案外つまんないもんだな」という、若者に
してみれば「なんちゅー贅沢ぬかしてやがるんだ」的暴言なんだろうけれど、「自分の思い込み」が
仲間内でまかり通るくらいでは、結局のところ,自分に福は訪れやしないんだ。

自分がなにかしても、なにかしなくても、その結果はどんどん積み重なる。
嫌んなったら「やらない」ってことを、若いうちはしちゃうんだけど、自分が何かしないことでも「しなかった結果」を
手に入れてるんだと言う計算はできていない。なにもしてないんだから、起こらない、という図式は成り立たず、
「何もしなかった結果」がちゃんと出る。気づかない、知らないことだって、結果につなかっていくことを
多くの若者は認識できない。かといって、分かってて、気づいて、手を打てたって、うまくいくとは限らない。

「その時の自分では正しいと思ってました」ってことだって、年齢を重ねるとその思いも行為も、つたないものに
映るんだってことが、わかんないのが普通なんだ。
「やったもん勝ち」的乱暴さで、何かを手に入れたつもりになった人は、長く生きる以上、そのしっぺ返しを
「報い」として受けることになる。やったことも、やらなかったことも、結果に至る。結果が出てしまう。
姿勢良く過ごす事を多くの人がするのは、そういう因果法則のようなものが予感されるからなんだろうか。

その結果になっちゃった「いきさつ」も「原因」も、他ならぬ、自分がずーっと見て、分かって来てるもんだから、
目がそらせなくなるし、そらしたところで,自分だけに、ちゃんと,心当たりとなって残ってしまう。
他の人には分かりあえきらない一角が、心のひとつに、ちょこんと鎮座し続ける。

この夏のあおいちゃんの変化も、私の体調の変化も、いいとか悪いってもんじゃなしに、「そうなんだ」と
知り得て、困らないように、そして楽しく生きながらえていく受け取り方をすればいいこと。

疲れてるってのは本当だな、とゆっくり過ごす休みで体調が整うとは正直思ってない。
今後も太陽光は私に厳しく当たるだろうけれど、日光は昔っからそのままだな。私の方が、変わったのだ。