作成日: 11/06/26  
修正日: 11/06/26  

ガソリンはゆっくり入れるに限る

すると、いつものタンクに、アラ、不思議


知ってましたか?ガソリンってゆっくり入れると、たっぷり入るんですって。
車のタンクって、サイズは一定でしょ?だからいつだって入る量は一緒って
思いがちですもんね。
でもそーじゃないんですって。それはね・・・・

生来、人がどう見てるのか、どう見るのかに、鼻の利くところのあった人柄だったのです。
作文は、どう書いたら先生受けがいいのかとか、気配が分かる感じがしてたんです。
そういった類いの「要領の良さ」は一定の期間中はみごとにテキメンしますが、
そのサービス期間のような、見えない枠組みを、一旦抜けると、とたんにいろんなものごとが
自分の思うように進まなくなり、それまでうまくいってたと思ってたやり方が、急激に
しぼんでしまうような感覚にとらわれることがあります。

自分から「発信」してるものが自分に戻ってくるのであって、その場しのぎや
見栄えのいい事、外面のいいことに乗っかって、自分が調子づいてやってしまったことの
結果しか戻ってこないんですから、「いっときは調子良かったのに」とか思うような人は、
つまるところ、生きる事、人生をなめてたのです。もっと深いのよ。もっとキョーレツなのよ。

自分の旬さを越えても越えなくても人生は続きますから、自分の旬さなどというアテに
できそうもない魅力なんてのに甘え乗っかって生きてるなんてのは、そもそもがギャンブルです。
その結果なんてものに一喜一憂しないでいいのです。嬉しくったって悲しくったって、
「自分の旬さ」なんてのを考えなしに乗っかってるわけなんですから、そもそも自分の努力で
手に入れてるものなんかじゃないんだからね。結果が重大であってもなくても、
あざとい勝負を挑んでた、くらいの扱いでいいんじゃないでしょうかね。

さて、今回話したいのは、そうした私の「戦略」をもって生きるってものが短期・中期的には
自分に効果した、としても、長い目で見ると「大したことじゃねーなー」って収まっちゃう
ことに尽きるんじゃないかしら?ってことなんです。
意図的に過ぎて、うまくいっても「俺は賢かったんだ」とうぬぼれますし、
うまくいかなくても「私は考えが足りなかった」と、しょんぼりしたりもしますが、
そのどっちもが、「自分はしてやったり!」「自分はし損じたり!」と身から出たサビ、程度の
結果でしかないさみしさ、威力の小ささが気にかかるのです。

自分、が納得してりゃ気が済む、なんてなスケールで、洋々たる人生を気持ち良く進んで
いられるとすれば、それは「初期設定」が些末なんですよ。ミニマムなんですよ。
その「見立て」こそがそもそも矮小ですよ、って言ってるんです。

自分が笑っても、泣いても、自分の中だけの葛藤や説得に終始してるだけで、まぁ言っちゃえば
「自作自演」の域を出ない。その世界観の中でウフフ、アハハ、アーンアーン、エーンエーン、で
「ああ、ボクって幸せ」「おお、ワタシは不幸・・・」って、かなりさもしい一人芝居じゃない?

生きてて面白いって思うのはね、自分が意図しないスケールから襲いかかってくるものに
対峙したときや、それに翻弄されたり、それを一緒に進んでる仲間に出会ったり、するなどの
「自分以外との結託」が幅を利かせると思ったのです。

幼少の頃から、そうしたものに鼻の利いた私は、それはもう大した黄金律を手に入れてた
気分の時があったのです。ああ、もう人生大丈夫、的な鼻持ちならない見通しをつけてた
こともあります。人を上手に使う事、お願いの仕方。いざ、というときに協力してもらうためには
普段、どう自分は振る舞ったり、言ったり、考えたりしてなくちゃいけないか、と戦略が
しこたまあったのです。

思い通りになる、ので嬉しい事もあります。
一方で、どう段取っても思い通りにならないことも、あきらめられるようになりました。
でも、そのどっちも、正確には事態そのものを、「味わっていない」のでした。
自分の戦略、がそのどっちにも配分・内包されてて、どこかしら「向きを自分の方に」
しむけるベクトルをしみ込ませていたような気がします。そのことが「自分の外と言う
『外界』から放り込まれてくるものを、プレーンな状態で、そのまままるごと味わう」ということが
直感的に避ける事になっていたのです。

ですから、外界のものを、そのままただ味わう、ということの面白さに、向かい合えるようになるまでには
時間がかかったのです。いろんな縁あって、年を召してからはそうしたことが楽しめるようになって
来たんです。「自分」を差し挟まないで、他人の事も、外界の事も、色目なしに迎えたり、
差し向かえるようになると、不思議ですね、縁というものがいいものをそのまま運んできてくれる
回数を増やすんです。それもこちらにあんまり無理のかからないものを選りすぐって、です。

なんにかんにと、自分が「色目」をつけたものは、ああ、ありゃあいけません。
自分がそれについてどう見てるか、なんてのは、相手にも伝わってますし、伝わっちゃう以上は
「あの人はこれをありのままにみちゃくれねーな」くらいな手合いにさげすんだり
相手向けにチューンしなおしたりと、どうもくだらない手間ひまが添えてしまう。
結果「メンドくさい人」にしか行き着かない。
いいものってのは、いいもの、そのものであって、手も足も出さない状態が一番よろしい。
それを、ただ、それ、と言える人のもとに、それは届く。ほら、こういうと簡単でしょ。
頭のいい人には、それが分かってない。自分の意図の入ったものを好物としてしまう。
その「自分の選りすぐり」勘の利きがいいだけに、プレーンな状態のいいものってやつが、
その頭のいい人ってのをグゥーンと遠巻きに避けちゃう訳です。巡り会わないように
周りの人も「どーせあの人はわかんないでしょうし、合わせたところでその価値を見る前に
手心加えちゃって台無しにしちゃうんだから」と、もったいない精神が発揮されて、
プレーンなものを、ただプレーンだからと喜べる人のもとへ、とーんと簡単に進んでいってしまうって
寸法ですよ。人生ってのはそうした寸法が上手にあちこちにあるんですよ。
頭のいい人にはそれがわからない。生半可な策略家にはそうした見立てが分からない。
自分以外の人の機微が「操られない」次元で、自分に作用してくれることが、綺麗なんです。

ああ、ガソリンね。ガソリンの話ね。そうそう。
私の人生の初期は、ガソリンをいつも大急ぎで、満タンで入れてるような生き方だったと
思います。
タンクは一定の大きさなんだから、早く入れるにこした事はない。それ急げ、やれ急げで
じゃぶじゃぶ投入してた。
急いで、大量にガソリンを入れるとね、泡立って、気化しちゃいがちな状態でタンクに
入っていくから、液体状態の時より膨張がちにタンクを埋めていくんよ。

ガソリン入れの蛇口みたいな先にはセンサーみたいなのがあって、注ぎ口一杯まで
ガソリンが来ると、注入を止めてくれます。
急いでいれたガソリンは、気化したり泡立ったりしてタンクをぐるんぐるんしてるから、
センサーに触れるのが幾ばくか早まる訳です。
本来なら、もっと入ったはずのタンクに、泡を食っていれたばかりに、タンクに余力を残して
注入を断念してたって訳ですよ。もっと入るのに、ってことですよ。
その一滴があれば、もう少し走れたのに、ってことですよ。

ですから今は変えたんです。
ガソリンは、ゆっくりゆっくりと、少量を、とろとろとゆっくり注ぎ入れてます。
倍は以前より時間をかけるようになってました。もっぱらセルフスタンドを使ってるので
自分の持ち時間一杯をガソリン注入に使います(たしか4分でしたっけ?1回の給油で)。

するとですね、案の定、たっぷり入ります。いつもより多めのガソリン代を、毎回払います。
その分、タンクにガソリンは満タンなんですよ。
いいですか、タンクにはガソリンが満タンなんですよ。
うっとこの車の持つタンクを、機能一杯に使い切るためには、泡立ってない、気化の
少なかった状態でタンクにまでたどり着けたガソリンがどれだけあるか、で走れる距離も
スピードも変える訳です。

「結果が違う」ってことですよ。
同じものを使って、
同じものに差し向かって、
同じであるのに

結果が   違うんですよ

違うんですよ


自分の色目を差し挟む、というのは、慌ててガソリンをつぎ込むようなもんです。
どんなに自分の意図通りに早くガソリンを入れたってね、タンクの中は泡だらけで
気化しちゃってるガソリンで、魅力半減ですよ。そんなガソリンで遠くまで、早く走ったって、
そもそもタンク内の絶対量が、ゆっくり入れてるときより少ないんだもん。
距離も減るに決まってるじゃん。
理屈でしょ?

ゆっくりガソリンを入れられたらね、タンクには一番隅々まで入れられるし、多く入るし、
遠くまで走るし、「自分は上手にガソリンを入れられる」って自分への自信も出る。
ガソリンってものを、丁寧に、上手に使えてる。
ガソリンの威力も、タンクの機能も、自分に有利な結果を約束してくれてる。
これが「ものごとを、ただ、ありのままに受け入れる」ってことの一番涼やかなあり方だもんね。
色目ってのは結果的に、高く、無駄につくんだ。

慌てる、ってのがそもそも自分本位な発想なのにね。そこにすら気がつきやしない。

自分の思った通りになってるってのは、案外、そんなもんですよ、ええ、そんなもんですよ。
ゆっくり入れたらいいんです、ガソリンですから、ええ、はい。