作成日: 11/07/15  
修正日: 11/07/15  

つらい数だけタフになる

弱いひとほど強くなる


つらいこと、痛い事というのは嫌なものです。どうしようもなくなるので、自分では
どうのしようもなく、なすがままになったり、手のあてがいようのないことになったりと、
自分の無力さプラス、相手や周りの思うがままに展開されていく身勝手さが身にしみるものです。

こういうことで、いちいち落ち込んでいられたり、怒ってみせたりしていられるのは
余裕のある時です。時間もたっぷりなければ、そういうことにかまけていられないものです。
そういう訳で、若い頃の苦しみというのは、年配になってから受ける苦しみより深く
因縁めいたものとなりがちです。

起こる事は起こるのであって、それそのこと事態に「意味」というものはありません。
ただ、起こるだけです。
それについて「嫌な事だ」「つらい事だ」と思うのは、その人の想像力であって、
「そう思った」だけで済めばいいのですが、「あんなことされて、黙っていられるか」とか
「必ずやり返してみせる」などといった決意に至ってしまうと、これはいけません。
随分時間と気力をそうした怨念めいたものに割いてしまう事になり、それに枝葉をつけた
動機が、ぐんぐんと分岐してしまい、いろんな準備が出来上がってしまいます。

もう一度書きますが、起こった事は起こった事だけでしかなく、意味がありません。
意味を与えるのは、自分という人の中の「こころ」です。
厄介なのはこの「こころ」は自分の中にあっても、自分の思い通りに作用していない事です。
こころ、の部分が「自分の意志」とは別個に、オートマチックに「反応」しているので、
それをあたかも「自分はそう感じた」と、自分の意志のように請け負って、信じきって
動いてしまうと、これはいけません。おおむね悪い方向へといざなってしまうものです。

善因善果、悪因悪果という言葉があるように、いいことをしていれば、いい結果が実ります。
悪い事の準備をしてれば、悪い結果が実るのです。
いい事をし続けてるのに、いいことないじゃん!と憤る輩もいらっしゃるでしょうが、それは
「いいことをしてるので、いい結果が期待しちゃう」という点が、悪因臭くありませんか。

見返りは期待しちゃうものではありません。自分が「善かれ」としてやる、まででおしまいです。
結果は周りが身勝手に評価して下してくるものであり、そこにコントロールを利かせるものでは
ないのです。ですから「どんな結果も貰い受ける」事以外はできません。つまり、
「なんだって起こる」くらいの心持ちでいないと、正当に事態を把握できないのです。

事実をゆがめて「自分の都合のいいように」しか受け取れない人、というのが世の中には
結構たくさんいらっしゃいますが、人柄はばれるものですから、正当に受け取ってもらえないなあと
相対する相手がそう思えば、もう「普通の事実」はその人に届く回数を減らすのは当たり前ですね。
正当な事実に面したいなら、自分が正当に受け取れる人でもなくちゃならないわけです。

そうした事実をすっ飛ばして、「こっちは正直にやってんのに、どいつもこいつもだましやがって」
みたいな人もいますけど、相手も人となりを見てますから、と考えると、自分に寄せているものが
自分自身の鏡、とも言えます。

嫌な事、つらい事というのは、一度味わうと「二度とこんな目には遭わない」と思いますから
原因を突き止めて、その再発に努力します。
なにをして「嫌な事」「つらい事」とするかは、人それぞれなのも不思議ですね。
ともあれ、「二度目」はないように構えるので、二度目は起こりにくいのです。みすみす前回ほど
真正面から自分を傷つけさせないよう、迂回路や事前防止のカウンターを加えたりします。
当然の事です。

嫌な事もつらい事も、複数あるので、複数の倍数分、構えるものを増やしてるのが人です、とも
表現できますね。
返せば、嫌な事、つらい事そのもの量を少なくしてやれば、構える事の数そのものを減らす事が
できます。
身軽に生きるためには、構える事の数を減らせばいいのですから、「自分の考え方ひとつ」という
言い方は、あながち外れてないと思います。

自由闊達に過ごす、というのはある程度の修練を自分に課した人であるか、親御さんが
「つらい事、嫌な事」を少なくするよう工夫した教育を施してくれたか、でないと
自然に身に付くものではありません。

不細工に、ぎこちなく生きてるなあ、と感じてる人は、まぁチャンスでもある訳です。
何が自分を不自由に感じさせるのかを眼前にできるわけです。
おお、そうか、自分はこういうのに憤るんだな、とか、ああ、自分はこうした場所に居合わせたく
ないんだな、と分かっていなかったからから、みすみす巡り会わせたわけです。

うん。
じゃあ今回限りにしましょうよ、となる訳です。
もうおしまいにしましょうよ、と。

「おしまいにできるものを見つけるチャンス」が「嫌な事」「つらい事」です。
これに「懲りない」人が再犯してるのは、選んでいるわけです。仕方がない、なんてことは
ないんです。

私自身、「三文芝居だなあ」と感じる案件・用件に出会います。謝ったり、悲しんだり、安普請な
芝居だなあと辟易としてることがあります。でもそれはそれでいいのです。これきりにするものを
決める際なんです。

自分には、自分に見合うものが、あてがわれますよね。
いいことも巡ってくるんです。