作成日: 11/07/27  
修正日: 11/07/27  

誰と一緒に生きているか

将来、なにを手に入れようとしてるかが、人とナリに出ますね


普段、どう生きてるかの派手さ、地味さは、この際気にしないでおく。
実際のところ、日常生活が派手か地味かなんていうのは、その人の「オーソドックスな生き方」の
一端であって、その人の狙ってる「クライマックス」な部分とは、少々色合いを異にする人の方が
多いなあ、って思うんです。
つまりは、「いざ」って時に、その人が意図したくらいに「いざさ加減」がまかり通るくらい、
底力を囲い持ってる人が「魅力的」だと、私は思ってるんです。

それは普段から「思い通り」なんてな生き方では、「いざ」ってときまでにたまる「運」
垂れ流してるようなもので、奇抜さも、驚きもない過ごし方です。普段、と「イザ!」のギャップの
大きさがあるほど、そして「イザ!」ってときこそ大股で進める「心持ち」が、「常々準備されてた様子」
こそが、カッコイーって思うんです。思うんですよ。

みんなが、きっと一斉にそう思いつつ、みんなが一斉に「あんまり」言ってない事の一つに、
「誰といつも過ごしているか」によって、人生の進み具合も、願いの叶い具合も、「全然違う結果に
なってる」ってことがあると思います。

自分、はあくまでも「自分」であり続けているのであり、誰と過ごそうが、自分は、自分をちゃんと
言いたい事も、やりたい事も、やり続けてます、とおっしゃる人もいる事と思います。
誰に、どう言われようとも、俺は、私は、自分らしくやってますよ、と言い張る人は、おおむね
「思い通りになってないもの」がある人の場合が多いなぁ、って感じてます。

そうした台詞をわざわざアピールしなくちゃならない訳があることが、気にかかります。
うまくやってる人って言うのは、そういうことをわざわざ言う必要がないのであって、沈黙しています。

誰と過ごしてるか、というのは、「今の自分」が、「自分」という枠を越えて、自分の周りに
「自分ライク」な人たちをまとわせて生きてる、っていうようなイメージなんです。
自分を許し、今の自分をそのままにさせてくれているのは、その環境です。世間です。
そこに身をおく事にしたのは自分です。好きだろうと、苦手だろうと、置いたのは自分です。
あらがおうにも、そこにいることにしちゃってるのは、自分です。
環境まるごとひっくるめて、自分、なのです。
まぁまずこれが「腑に落ちない」人が多いので、冒頭に言う「俺は(私は)自分の思い通りに生きてるぜ」と
わざわざ言葉にする人が現れちゃいます。言わないでヨロシイ。なんでアナタの「満足感」は
言葉にしなくちゃ物足りないか、こそを考えなさい、と。

誰と生きてるのか。
誰と過ごしてるのか。
それは自分という「枠」や「考え方」を「どこまで、どういう風に拡張するつもりか」が
現れてると思います。思想や、行動力や、可能性は、常々その人の「今」に現出してます。

言葉の使い方も、身のこなし、所作も、まわりに集めてる人も、環境も、全部「自分に相応」で
積み上がってます。勘違いしちゃいけないのは、「そこで全部そろってる」んじゃなくって、
「今は、そう、そろってる」だけのことであることです。

必ず、変化します。
仲間の顔ぶれも、環境も、心持ちも、必ず、変化します。

ただ、「今、自分にまとわせている」ものが、動機となって、原因となって、次のものはくる訳ですから
自分の近くに「何を用意してるのか」「誰と一緒にいるのか」は、そのままつまり、将来を
「暗示する種」でもりもりしてる訳です。

将来、も俄然変化するものですから、今の自分が「思った通り」と願ったままに将来がやってきても、
「その時の自分」はおおむね「過去に願った自分」より、いくぶんか変化しちゃってますから、
結局のところ、満足なんかしやしません。

仕込んでるものが、芽吹くんですよ。
仕込んでない人には、「仕込んでこなかった」結果が、芽吹くんです。
仕込んでた人には、「仕込んでた」がゆえに芽吹くものがあるんです。妙なのは「思った通りじゃないけどね」
っていう結果であることを、あらかじめ覚悟しておくことですけど。

このごろ、特に「今」の過ごし方のうまい人と、うまくない人が、目に見えて分かってきた。
それは「今、楽しそう」っていうんじゃなくて、日常が、普段がきらびやか、ってんじゃなくって、
「いつかたどりつく将来に、きっとこの人は、すっごく幸せな気持ちになれる」人っていう人種が
あるってことです。
なんかこう、めぐりめぐってたどり着く将来なんて、何が自分の近くにあって、なにがなくなってるかなんて
想定のしようがないようにも思えるんですけど、「そこいらへんの細かかったり、微々たる変化はこの際
ざっくりさておき」な生き様が、「いろいろあったんですけど、結果オーライ!」な大鉈(おおなた)で、
大雑把な「一斉オーライ」を予感させる人と出会うと、あああ、なんだろ、このいい気分は、と
「今じゃないなにか」に酔うんです。うっとりします。

苦境にあったり、思い通りじゃないことに苛(さいな)まれる毎日を過ごしてると。やさぐれたり、
ふてくされたりする人っているでしょ?正直ですよね。
でもそんな局面でも「それはそうとして」以上に捉えない人ってあった事ありませんか?

なんでこの人は超然とこの事態を受け入れてるようにみえるんだろう。
なんでこの人は超然とこの苦境を直視しないで遠くを見据えていられるんだろう。て。

「そこはかまってる所じゃない」ってことで、苦しむとか、嫌がるっていう感情すら消費しない、
使わない姿勢は、「どこで、なににこそ、自分をかまわせているか」を、自分の側で管理させる
イニシアティヴがありますもんね。これは、強い。

「どこで、なにに自分をかまわせていくか」を選んでる人は、スタートラインがもう違うと思う。
だから、日常生活にあっても、派手にも地味にもせずに過ごしてるし、普通だからといって
意気消沈してる様子もないし、士気やモチベーションも雑に上下しない。フラットに、連綿と
うごめくように「静かに元気」が延々にじりにじりと続いている。

当然、身の回りにいる人が「誰でもいい」ではないし、誰と居るか、によって、その将来が
全然方向も、サイズも変わってしまうものだけれど、その威力も魅力も「他人に左右させるものではない」
くらいには、自分の側のセンスもサイズもハッキリしてるので、まぁまず振り回されもしない。
多少周りのわがままや要求が入ってきても、けっこう大雑把に受け流してしまう。
だから一見無感情や無表情に感じさせることすらあるけど、それはもうひとつの「自信」の形。

生きてて、どんどん「次ぎにくる可能性」が見えないままに、楽しそうである人には、
工夫、というか、センス、というか、まぁ普通の人にはない「後光の光」がある。
オーラっていうの?まぁ名前はなんでもいいんですけど。

このごろ、私はそれが気になって仕方ないのです。なんかこう、出てますよ。人から。

今の駄目が、すべての駄目じゃない。
かといって、今、駄目なままを、受け入れたり、放置してる人は、駄目なままの可能性を高める努力を
してるに等しい。
今の駄目は、今の駄目、でしかなく、その駄目さ加減まで、自分というボイラーに放り込んで
火力を得る人、という存在に、出会った事がある人と、そうでない人では、

全然生き方が、見え方が違っててトーゼン!っておもいませんか?

今、誰と過ごしてるか。
今、どう過ごしてるか。
そこに、もう「将来どうなっていくか」の突端は頭を見せています。

どんなに泥だらけに見受ける人であったって、「この人、キラッと光った瞬間を持ってる」と
他者が見つけてしまったら、その開花を注目すると思います。

ですので、「今にがっかりしきる」だなんていう暢気な生き方は捨てちゃってください。
人には、その人とナリに、将来が映ってます。
「その人が、なにに、どこに焦点を置いているか」にこそ、力が宿ってると思います。
それを見るか見ないかは、思い込みかもしれないけれど、生き方が断然豊かさを変えると思いますよ。

自分がどんな目にあうかは選べない
だけど、どの気持ちをたくましくしていくかは、自分で選んで大きくできる。
そこは自分で選んできてるんだから、文句たれる理由なんかない。
それを受け入れれば、まだ見込みはあるけど、たいていの人は運だ、とかヘンテコなことを言い出す。
違います。
よくも悪くも、なにをたくましくしてきたは、今の自分を見れば、一番分かってますよね。
まだ選べるんだよ。今日、今からだって。

ぼかぁ、そう思うなァ。