作成日: 11/08/16
修正日: 11/08/16
草取りと打ち水
徳の話
PL学園の、もと野球部監督のコメントが、真夜中のラジオで流れてた。
決勝戦に向かう、その日に、部員たちがグランドの草むしりをやってるのを観て、
よし、今日は勝てる!と思った、という話。
草むしりしてて、(野球に)勝てる、とはこれいかに?と思いがちなんだけれど、
このごろちょっと、それが解るような気がしてきた。
徳を積んでるだ、とそのもと監督はおっしゃっていた。それもうなずける。
このごろ私は店の軒先で、命令される訳じゃないけど、打ち水をしてる。
私より若い人は水をまく、なんてしないし、目の前の事で忙しい、という理由のようだけれど、
水を撒いてて気づくのは、年配の人、特に女性から、ほんのり優しい笑顔を向けられることが
非常に多いこと。
酷暑続く昨今なので、打ち水なんてやったって、5分としないで蒸発し、まさに跡形もなく
消える仕事。だけど「アスファルトはきっと放射冷却で涼しくなってるはず」と信じてやってる。
はず、と思うしかない。実際涼しくなってるかは、判然としないから。
はず、を強調してるのは、やってる本人も判然としないのだ。これを本当にやってるべきなのか、
もっと他の事に時間をあてがうべきじゃないのか。つまり、迷いながらやってる。
迷ってるのに、やってるのは、「いい事のように思う」という、獏とした、なけないしの自信で
やってるだけ。
そういう、自信のなさが人を呼ぶのだろうか。ご年配の女性が「ご苦労様だねえ」とか
「打ち水してくれると、涼しくなってる気がするねえ」って、わざわざ声までかけてくれる。
そうでなくとも、目元で微笑んだり、軽い会釈をいただくこともある。
自信満々でやってることよりも、人がさげすんだり、後回しにしたがったりしてることを
やってる人に対し、目線を預けてくれる人には、「そう、それってあんまり人が
やりたがってないよね」って解ってくれてる思慮がある。
それがゆえに、ねぎらいの気持ちが生まれるようだ。
やってる人にも、ああ、よかった、続けようって気持ちが芽生える。
冒頭のPL学園の選手たちの草むしりには、人の観てないところで徳を積もう、という
意図以外のゆとりを感じる。周りのものが一斉に味方になれる素地がある。
野球で勝てば官軍!的発想では、草はむしれない。グランドにありがとーっておもいながら
草をむしってると、グランドまで、味方になれちゃうと思う。もし神様がいて、
空の上からそれを見てたら、勝たせてあげちゃおうか、と思うと思う。
そしてそれに、文句を付ける人もいないと思う。
徳を積む、というのは言葉でそう「捉えてみせる」だけのぐあいであって、あくまでも
やってる本人というのは、「自分ではよかれと思って」以上には考えてない。
徳を積む事が大事、と格言めいて言わなきゃならないのは不幸なことで、それを言う時には
もう徳は薄れてると思う。
自分が意図する以外のものに、好感して受け止めてもらうには、自分が意図してないことを
よかれと思ってやってる、だけの数を増やす事が大事だと思う。
自分でしっかり理解できる事ばっかりやってる人にも、徳はつきにくいと思う。
あくまでも「いいんじゃないかな」と若干の不安具合があるくらいの、あってもなくてもいいことこそ、
誰もが手を出さない、あとまわしの宝庫なのだろう。
それだけに、そこに手を出すって人には知見を感じるし、得にもならないことに精を出す愚直さにも
惹かれるものです。狙ってやってもいいけれど、そういう頭の良さでは、今度は継続ができない。
いつかくる、やがてくる、いろんなエピソードに、人生は彩られてるわけですが、そのほとんどが
思い通りになりにくいからこそ、人生は難しいと言われます。お金があっても、人脈があっても
思い通りになるとは限らない。ましてや、思い通りってヤツが幸せとも限らない。
だからこそ、さ、徳は積んでおこうってことです。
いざ、どこでなにをしてたって、上に言ってきた「人が預かり知らないところ」で黙々と
「よかれ」と思う事を続けているとね、ふうっと味方が増えてるんです。初見の人ですら
好感されたりします。出るんですよ、所作に。顔つきに。しぐさに、人が。
にじみ出るものが、人に見つかるんです。にじみだすものや、自分の背中は演出できないから、
内面を綺麗に保つよりほかはないわけです。内側にためこんだものが、表面に「にじむ」からこそ
隠しきれないし、隠さないでいいわけです。
PL学園の選手が、監督に今日は勝てる!と思わせたのは、監督が選手に大いに惚れ直せたからですよね。
こいつら、大好きだ、って思えたからですよね。いいことあるよな、って思ったんですよね。
こういう感じって、大事じゃない?これこそ、すべてじゃない?
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